ポリリズムは面白い

フルートと指揮のダブルメジャーだったアメリカの大学院時代。
ある時、レッスンで指揮の先生から、ストラヴィンスキーの楽譜を渡された。
タイトルは忘れたけど、管楽器が13種類ぐらいあるスコアで、小節ごとに拍子が変わっている。
「え?これを初見で触れってか?」
3/8、5/4、13/16、4/4,…..
小節ごとに目まぐるしく拍子が変わるので、当然「棒の振り方」も変わる。
しかも初見。
いかにもストラヴィンスキーらしいスコアだった。
まるで『春の祭典』を思わせる。

とは言っても、『春の祭典』は、アクセントの位置が変わるだけで、それほど複雑な変拍子ではない。
まあ、アクセントの位置が変われば、聞く人には立派に変拍子に聞こえるのかもしれない。
でもね、待てよ、と思った。
「本当のポリリズムってそういうことなのか?」

例えば、楽団が3つぐらいそこにいて、それぞれまったく違った拍子で(同じ曲を)演奏していれば、それはそれで立派なポリリズムだけど、毎小節ごとに拍子が変わるのであれば、それは単に、(音楽が)こっちからあっちに道を変えているだけに過ぎないんじゃないのか?
そんなものをポリリズムとは言わないのではないのか?

とは言え、ストラヴィンスキーもラベルもバレエ音楽の巨匠だから、身体の動きに関しては(多分)スペシャリスト。
私ごときが口はばったいことを言うつもりもないけれど、ラベルのやったポリトーナリティも、ストラヴィンスキーのポリリズムも西洋音楽から見る、ある種の「エセ」なんじゃないの?とはよく思っていた。
ある意味「なんちゃって」…?
と、ここまで言うと、「超言い過ぎ」できっとみんなに非難されるかもしれない。

その意味では、小さい頃から父親が軍楽隊のリーダーだったチャールズ・アイブスのポリトーナリティやポリリズムの方がはるかに「本物」なのではないかと思う。
だって、村のお祭りに、あっちからもこっちからもいろんな軍楽隊がやってきてそれが重なったり消えたりしている「環境音」をそのまま「作品」にしちゃったのだから、この人は。
四分の一音ずらして(半音でないところがミソ)調律した2台のピアノを同時に弾く曲を書いたり、オーケストラのパートを3つにも4つにも分けて、全く違ったことを演奏させたりするような実験もやっている人だ、アイヴスは(この人は、フランスのサティとほぼ同じ時代を生きた作曲家)。
彼は、交響曲を4つ書いたがそのうちの一つ、交響曲第三番でピューリッツア賞を受賞している(写真で有名なピューリッツア賞に音楽部門があることを知らない人も多い)。
今は亡き小澤征爾さんは、ボストンでアイブスの曲をたくさん演奏していた( アイブスの住まいはボストン郊外にあったことも関係してるかな?)
アイブス作品のほとんどの管弦楽作品はボストン交響楽団が初演している。

自称「アイヴス研究家」の私は、『アイヴスの歌を聞いてごらんよ』の著者であり作曲家の三宅榛名さんを誘って、新宿ピットインで何度も「アイヴスライブ」をやった。
しかも、共演したのはクラシック系のアーチストではなく、坂田明さんのようなフリージャズ系のアーチストたち。

クラシック系の人たちにとって、ポリリズムもポリトーナリティもどこか「他所行き」の服装だけれども、民族音楽にはポリリズムやポリトーナリティの曲はほとんど普段着にも等しいほどたくさんある(まあ、曲と言えるかどうかも怪しいタイプの作品も多いけれども)。
ジャワのガムランの一種、ケチャなんかもその代表的な例だと思う。
とにかく、アイブスにしても、ストラヴィンスキーにしても指揮棒を振るのは超絶的に難しいけれども、ケチャの人たちは、指揮者も置かずに、異なるリズムを演奏する複数のグループが見事に曲を一体化させている。
きっと、農耕民族の人たちが、仕事を一緒にする時にはとても都合の良い「同調」の仕方なのかもしれない。

下記に、参考として、変拍子の楽典的な解説を日本の作曲家の方がなさっている動画と、ストラヴィンスキーの『春の祭典』をめっちゃ軽快に踊っている日本の女性たちの動画を紹介します。

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