見出し画像

香港の運命

(2019年8月2日)

本日は、香港におけるデモの問題を取り上げたいと思います。香港問題は、中国の問題を考える上で避けて通れない文脈を提供してきました。自由経済都市における自由という文脈を超えた、世界史的な意味合いについて考えたいと思います。

大型デモの背景と顛末
香港における200万人デモは、世界を驚かすものでした。香港は、人口700万人程度の街ですから、この規模のデモが行われるというのは人口の1/4近くが参加したということになります。最近でも、ロンドンにおいて、ブレクジットをめぐって100万人規模のデモが行われたと報道されていますが、日本ではちょっと考えにくい規模感です。

争点とされた、犯罪人の引渡しをめぐる法案が、それだけ、香港の未来にとって死活的と判断されたからでしょう。実際、一国二制度の下で、中国本土とは異なる法に保護されている香港人にとって、香港での犯罪が、司法があからさまに政治に従属している中国本土において裁かれるリスクが生じるというのは、看過できない法的保護の劣化でしょう。

手続き論的には、今回の混乱は香港政庁の幹部が稚拙に推し進めた結果が、民衆の不安心理を煽る結果となりました。もちろん、中国本土とのより緊密な連携や、政治的・社会的な締め付けというのは中国の中央政府が推進してきた全体的な方向性ではありますから、香港政庁による忖度が働いたのでしょう。結果的に、キャリー・ラム行政長官は件の法案を撤回はしないものの、棚上げすることを表明して事態の鎮静化に動きました。

大衆運動によって政策が動いたのですから、市民運動の勝利を喜びたいところですが、事態はそれほど単純ではないでしょう。米中対立が国際的な注目を浴びている中での今回の混乱に、中国政府も苛立っているというのが実態のようです。ただ、中国政府は大衆運動によって政策の方向性が変化したという前例を嫌うでしょう。取り締まりは地下に潜り、暴力的になってきていることが窺えます。数年前の雨傘運動が勢いを失ったように、今後は中国政府と香港政庁によって運動の勢いを削ぐような動きが見られるのではないでしょうか。

香港という存在
一連の経緯とその意味合いについては、チャイナ/香港ウォッチャーの方が解説をされていますので、そちらに譲るとして、ここで焦点を当てたいのは香港という都市が持っている歴史的な意味と、米中対立が激化しつつある今日における本件の意味合いについてです。

香港という街は、中国及び世界の近現代史を様々な意味で象徴しています。まず、わかりやすい象徴性としては、その歴史的な起源が、英国による清帝国とのアヘン戦争にあるということです。中国の中で、香港が特殊な地位を占めていること自体が、中国の「屈辱の一世紀」であり、反植民地化という歴史抜きにはあり得なかったことなのですから。香港は第2次世界大戦後、驚異的な経済発展を遂げた豊かな自由経済都市となりました。そのこと自体は、特に香港っ子にとって誇らしい成果です。香港の持っている中華民族にとっての象徴性には、中国本土の体制に疑問を持つ者も含めて、特殊なものがあるということを、外部から香港を見る人間は十分意識すべきでしょう。

第2次世界大戦後の世界にとっての香港は、冷戦と中国との付き合い方をめぐる象徴へと変化しました。日本の敗戦によって香港の支配者として復権した英国にとって、大陸の覇者となった中華人民共和国政府から軍事的に香港を防衛することは不可能でした。結果として、英国は西側先進国の中で最初に中華人民共和国を中国の正式な政府として承認します。やむを得なかった判断とはいえ、現実主義の英国外交の真骨頂であり、英国によるこの判断が、香港の繁栄と中国に対する現実主義アプローチを体現しているように思います。中国の政治的価値観への拒否と、通商を軸とした経済関係との両立の路線です。

他方には、米国による台湾(中華民国)を中国の正式な政府と強弁する建前のアプローチが存在しました。自由主義陣営の雄であった米国にとって、1940年代後半、瞬く間に「中国を失った」ことは大きなショックでした。冷戦が激化する中で、米国はイデオロギーをより前面に出した中国政策を採用したのです。とは言うものの、米国は中国の内戦を1つの引き金として、自らが熱戦を戦わなければならない展開を懸念していました。結果として、米国は、蒋介石政権の大陸反攻政策や核保有には、疑似同盟国とは思えないほどに冷淡でした。

ニクソンショックによって米国が中国政策を転換した背景には、複層的な目的が存在しました。より現実主義的な中国へのアプローチを模索したという側面、中ソの対立を見抜いて主敵であるソ連の孤立化を推し進めたという側面、そして、当時の米国にとって最大の懸案であったベトナム戦争への影響力確保を図ったという側面です。

1997年という現実
中国に対する西側のアプローチについて取り上げるのは、これら2つの流れが香港の中国への返還が合意された後に重要となってくるからです。1980年代にサッチャー政権が誕生すると、1997年の香港返還を見据えた英中の交渉が活発化しました。ここでも、いかにも英国的な外交が展開されます。交渉の構図は最初から見えていました。中華人民共和国の協力なしに香港という領域とその住民の生活と安全を守る術はありません。冷戦のさなかにあったとは言え、香港にベルリンのような選択肢はもともとありませんでした。

したがって、最終的には中国が香港の未来をコントロールすることは明確でしたが、それでも、英国は老大国としての誇りを失わずに交渉します。結果、50年間は香港の基本的な構造を変えずに一国二制度を運用するという言質を中国から「引き出した」わけです。もちろん、実体としては、中国側の総責任者であった鄧小平氏に卓越したビジョンがあったということでしょう。時の中国は1970年代後半に始まった改革開放の試行錯誤の真っただ中にありました。鄧小平は、改革開放政策の震源地に香港の対岸に位置する深圳を選びます。経済発展を最重視した鄧小平にとって香港とは「ネズミを捕る能力」の体現者であり、改革開放政策にとっての最重要のツールであったわけです。英国は、香港の国際金融センターとしての地位と自国の金融機関の競争力を守り、中国は西側への出口と改革開放政策のかなめの存在を得たわけです。

香港返還を前にして、理想主義的アプローチを模索していた者たちはある種の絶望感に苛まれていました。英国が、一国二制度の言質を引き出していたとは言え、究極的には中華人民共和国の主権下に入る香港の未来に、もはや完全な自由を想定することは不可能でした。米国の理想主義者たちは、主に2つの方法でこのような事態に対処しました。

1つは、香港政策法に体現されている自由経済都市香港との経済的関係を、中国とは別個に運営するというコミットメントでした。この枠組みによって香港の経済的な成功のもう1つの柱が完成します。今日に至るまで、香港の通貨である香港ドルは米ドルにペッグされており、香港の金融センターの不可欠なインフラとしての機能をはたしています。

もう1つは、米国をはじめ、カナダや豪州などのアングロサクソン諸国を中心に、香港から大量の移民を受け入れたことです。冷戦の理想主義に力があった時代、自由を求める移民や難民への永住権や市民権の付与については寛大な時代だったのです。これらの移民政策によって、各国に大きな中華系コミュニティーが生まれます。彼ら後期の中華系移民がグローバルな存在感を発揮するのは2000年代になってからですが、広義の中国にとって、彼らの存在が貴重なアセット(経済資源)となっていくのでした。

興味深いのは、理想主義を体現して行われた政策の2本柱が、西側各国における中国関与政策の根幹を形成し、今日出現したグローバルな超大国としての中国という存在を可能にしたということです。まさに、ニクソンショック、香港返還、中国のWTO加盟への流れの中で、20世紀後半から21世紀初頭に存在した中国を国際社会へと包摂する時代が続いたわけです。おそらく、トランプ政権の登場によって、はじめて、この流れに変化が生じうるかもしれない状況になっているのです。

時代の側に立っているという感覚
21世紀前半という今日、中国と香港をめぐる状況は大きく変化しています。中国は世界第2の経済大国として、量のみならず質の面でも米国と肩を並べるまでになっています。そして、この変化の絶対的な水準とともに重要なのが、次代の趨勢についての人々の認識です。購買力平価ベースでは、中国はすでに世界最大の経済大国であり、ドル換算の計測でも2020年代の半ばから後半には米国を凌駕すると予想されています。

香港の地位については、中国に支配されることで魅力を失っていくだろうという認識も存在しました。また、上海や深圳との競争の中で埋没が懸念されていましたが、実体は随分と異なるようです。国際金融都市としての機能や、アジアのハブとしての機能の一部がシンガポール等へ移ったことは事実ですが、金融都市としての存在感では今でも香港がアジアでナンバーワンです。香港の経済的な自由度や、競争力は絶えず世界のトップクラスを維持していますし、中国経済の発展によって金融センターとしての地位はむしろ高まっている部分があります。中国のイノベーションと金融を結びつける存在としての香港は、すでにニューヨーク市場を超えて世界最大のIPOマーケットとなっているのです。かつて、大英帝国の残滓の中でグローバルなハブとして存在した香港ではなく、グローバルな超大国となった中国のハブとしての香港という位置づけです。

国家主義的な市場経済モデルを採用する中国は、経済発展、秩序、集団の利益を重視する価値観を体現しています。香港の特殊性は、1997年体制の現実の中で、政治的な枠組みとして中国に属しながら、激しく自由な経済体制を維持していることです。今回の一連のデモをめぐっても、この点を取り違えた勘違いの批判が多くなされました。米国のリベラルの一部には、米中対立と北京憎しの感情から、香港の自由の柱である香港政策法を梃として交渉を行うべきという議論が沸き起こっています。米国側が、自由と市場に反対する側に与するという倒錯的な状況が生じかねない状況です。そして、今日の米国との関連で心配なのは、結局、米中対立の根幹にあるものは何なのかという点がはっきりしないこと。中国への反発は、イデオロギーを軸とするのか、人種を軸とするのか。香港の自由への軽視ともとれる姿勢には、米国に理想の力があるのかという今日の世界が抱える課題を改めて浮き彫りにしているように思います。

日本の保守の一部には反中国的感情が先走って、香港人に向かって反中華的な感情をぶつける始末です。香港っ子の多くは、誇り高い香港人であると同時に、誇り高い中国人でもあるという彼らのダブルアイデンティティーの内実をまったく理解していないのでしょう。

また、日本に限らずですが、リベラル的価値観に基づく市民運動の勝利という見方もいささか浅薄と言わざるを得ないでしょう。香港の人々が、自分の街に誇りを持ち、生活を根幹で支える司法の独立を守るために行動に出たことは市民的不服従の観点から有意義なことではあろうけれど、頭の中にラ・マルセイエーズが鳴り響いているかのような識者を見ると力が抜ける感じがしてしまいます。短期的な成果として法令の棚上げには成功しても、前述した通り、今般の運動の中長期的な顛末については、決して楽観はできないと思っています。

身も蓋もない言い方かもしれないけれど、香港の政治的自由をめぐる戦いは1997年に決着しています。今回のデモが守ろうとしたもっとも意味のあるものは、香港の自由の核心にある資本主義を守ろうとしたことなのではないかということです。

* 本稿は、2019年6月19日付の公式メールマガジン【三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」Vol.81】の一部を抜粋、編集したものです。