教育に自分の表現もあって良いのか。
先日「美術館はどのような場所なのか 教育普及の視点から考える」を偶然見つけてオンライン参加した 。
うんうん共感する事と色々省みることもあった。
僕は学芸資格もなく、美術館に勤めているわけではないけど
ここ数年幼児や学生と関わって教育普及に携わりたいと思ってる。
一番印象的だったエピソードは、これ。
『盲学校の子供達は彫刻作品を触って鑑賞してもらうように考えていた。
しかし「なぜあの子達は触って良くて私たちは触ってはいけないのか」と
問合せが出ることが考えられたので、別室を用意して触ってもらうことにした。
しかしこの判断について今でも考えている。
見える人は見える人の、見えない人は見えない人の楽しみ方がある。
そういうことは美術館で「混ざって」よかったのではと反省している。
別室にすることで「見える人には、その人達が見えなくなる」
仮に「なぜあの人たちは触って良いのか」と問われた時に説明できる用意をしておけばよかった。
分けたことでトラブルはなかったがそれでよかったのか。
ただこれは教育普及担当者のエゴかもしれない。
「ゆっくり触りたい」と当事者が望んでいたらそれは優先するべきかもしれない。
一般の人に「いろいろな見方もある」と押すのも違うかもしれない。
ただ「混ぜる」ということを意識して考えたら違うやり方があったかもしれないと今でも考える。』
大体こんな内容だった。
これは僕もすごく考える。
WSでは美術を通して生きる力と交流を伝えたいと思っている。
誰に、何を、伝えるのか。違うやり方はないのか。
WSを体験した事から広がる社会?教育も大事だと思って取り組んでいる。
けど、それは自己満足になっていないか?と感じることもある。
その想いが強すぎると、本来の狙いからもズレるし、
複数人で進めるプロジェクトだと熱量でズレも起こってしまう。
でも学芸員の方が今も考えているように、完璧な一つの答えはなく、
真実に近づくように日々取り組まないといけないだろうな、と
自分の中で落とした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?