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「居る」を考える

 あちこちのしゃぶしゃぶチェーン店の牛タンしゃぶしゃぶフェアを食べ比べましたが、やっぱりナンバー1はゆず庵の牛タンでした。こんにちは、Ya-maです。春はどこも牛タン祭だけど、旬なの?肉の部位に旬ってあるの?

 さて、よもやま実験室♯2が昨日終わりました。しかし、初回の「居る」について、その後もいろいろと考えてみたので、先に私の「居る」を残しておこうと思います。

「居る」ってなんでしょう?

 私が演出をするとき、役者にはいつも、まず「居て」ほしいと願います。それは、舞台の上でただそこに存在する、ということです。けれど実際、役者にとってこれは難しいようで、なにか喋ろうとしたり、ふらふら動いたり、手持ち無沙汰になるのをよく見かけます。なぜ彼らはそこに居られないのでしょうか。彼らは大概、この問いに答えられません。自覚すらないこともあります。
 これは私なりの答えですが、おそらく、怖いんだと思います。恥ずかしいのだと思います。不安なのだと思います。舞台の上にさらされることが。丸裸でいなければいけないことが。この先に何が起こるのかわからないことが。だから、存在する理由を探していい訳のように何かしてしまうのでしょう。見られているのではなく、見せているのだと、何かをとりつくろうのでしょう。
 そう、「居る」って、とっても覚悟のいることなんですよね。

 だから演出として私は、覚悟をもって舞台に「居て」ほしい。役者にはまず、そう願います。受け入れ、応えてほしいから。それは演出指示だけの話ではないです。役者同士の、また、観客とのコミュニケーションのためにです。
 あ、演出にとっての「役者に“居て”もらう」って、「素材としてのヒトであること」なのかもしれない。そこにある役者自身の羞恥心や不安など知ったこっちゃないのだから。

 とはいえ、自分が役者であるとき、覚悟をもって舞台に上がるのは大前提として、「居る」というのはそれだけで済む話ではないです。台本があるないにかかわらず、役者はその舞台の上で表現しなければいけない未来がある。その「表現」こそが、「受け入れ、応える」だと思っています。では、どのように?
 私が考える、役者にとっての「居る」とは、「生きている」ということ、または「生きていない」ということ、でした。
 「生きている」とは生命活動のこと、呼吸をすること、見たり聞いたり感じて考えること。逆に「生きていない」とは、概念で存在するということ。命も心もなく、そこに存在するということ。
 舞台の上で、役者はどちらかではあると思うのです。そしてそれが、柔軟に「受け入れて、答える」ための役者にとって必要な肉体なのじゃないかと思うのです。求められる基礎的な演技能力なんてその後で、まずはこれがあるべきでしょう。

 私は、演劇をそう作りたいなって思ってます。

 しかし、よもやま実験室初回の「居る」ってなんだ?という投げかけはいささか乱暴でしたね。あまりに広かったです。いろいろな点から「居る」は考えられますもんね。
 この記事では演出と役者にフォーカスしましたが、たとえば脚本は?「居る」ことにおいて言及していないですね。観客にとっての「居る」は?認識によって決まる事なので役者が実際そこに居る以内は関係なかったりしますね。ここをもっと掘っても面白そうだな。それと、役者じゃなくてパフォーマーだった場合は、また「居る」の意味や価値がわかりそうですね。彼らは「居る」だけでお金を生む存在なのだから。

 当日は沢山の研究員のみなさんから、いろいろなお話がきけて嬉しかったです。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。イベント終わりには笑顔で交流する姿も見られてとっても幸せでした。ありがたいですね。まだまだ未熟者の私なので、これからも沢山学ばせてもらいたいです。
 求めらえる場所になれるよう、必要な時に使ってもらえるよう、研究室も充実させていきたいですね。

 さて、次はどんなことをしようかな。

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