名前が先か存在が先か―ソシュールを参考に―@☆俺神☆枕寝間欲

こんにちは、この名前では初めまして、☆俺神☆枕寝間欲です。新しくお名前をいただきました。これは私の親の形見です。嘘です。私のライバル的な人間につけていただきました。多分部分的に嘘です。

 最近寒ブリを食べました。本当においしかったです。日本に生まれた価値は生魚を美味しく頂けることに集約していると感じます。多分部分的にそうです。そういえば、この間某スーパーの鮮魚コーナーに行きました。余談ですが、生魚の見た目も好きなので、鮮魚コーナーにはアイドルのライブみたいな気持ちで向かいます。その某スーパーの鮮魚コーナーに「ぶり大根用ワラサ」という商品がありずっこけてしまいました。鰤は出世魚なので、鰤、として大成する段階に名前がついています。

関東ではワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ
関西ではモジャコ→ワカナ→ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ

 関東地方での「(大成したら)ブリ」は四段階に名前が付けられているのに対し、関西地方での「(大成したら)ブリ」には六段階に名前が付けられていますね。関東のブリは四回メタモルフォーゼし、関西のブリは六回メタモルフォーゼするのでしょうか、おそらく、日本臨海を泳ぎ、市場に出回っているブリは全国共通同じ種類のブリでしょう。え、本当に同じブリなんですか?皆さん、脂肪肝を患った鴨も健康な鴨もどちらも「鴨」と呼称しますよね、どうして同じだと思うのですか?「同じ定義をもつものを同様に『鴨』と呼称している」と言ってしまえばそうなのでしょうけど、どこまでをレギュレーションとし、どこまでをレギュレーション違反としているのですか?

 皆さんは「名前」に対してどのような感覚をお持ちですか?ことばの恣意性について、考えたことはありますか?ここで私はソシュールの言語学を引用したいのです。簡単に言ってしまえば、「存在に名前をつけているのではなく、名前を付けることによって存在を確立させている」という考えの言語学です。「(大成したら)ブリ」に対して、関東では成長段階ごとに四つの名前を付けることによって四種類の魚の存在を確立させたのに対し、関西では六つの名前を付けることによって六種類の魚の存在を確立させています。そもそも「ブリ」もこの世に存在する物を小分けにする過程によって生まれた存在です。名前を付ける、という行為は他と区別しそれを確立させる、という、神の力のような行為であり、恣意性をたぶんに含んでいると私は考えます。

 ここまで長々と話しましたが何が言いたいかというと、新しい部隊ネームができることにより私には出来ることや役割が増えていて、部隊ネームの数って劇団山脈から伸びて私を縛りつける鎖の数と同値なのでは?と、思うことがなくはないですよね。

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