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「何かになりたい」欲求ってどこからくるんだろう

人間って、具体的になりたいものと、抽象的で曖昧ななりたいものがあると思う。
前者は「職業・役職・地位」とかいう分かりやすいもの。
後者はいうなれば「なりたい自分」といったところかな。

それで、「何かになりたい」っていう時は、一見前者のような気がするけど、実際は後者だと僕は思う。

自分のことが嫌いな時って、大抵苦しい。
自分のことが嫌いな時、誰かや何かを心から好きになるのは難しいし、大事にするのも難しい。
誰かの優しさを素直に受け入れられないし、世界が敵に見える。
自分が嫌いな自分に酔いしれることで苦しさを紛らわすこともできなくもないけど、それはだいぶ不健全だ。

やっぱり自分のことを好きになりたい。

一生つきあって生きていくのだから、自分のことは好きでいたい。
自信に満ち溢れた自分に、簡単になれるのならそうなりたい。
だけどそうも上手くはいかないから、悲劇の主人公を気取って、可哀想な自分を好きになってみたりする。これは嫌いな自分に酔いしれることに似ている。こんなことを続けたら、きっとそのうち自分のことが嫌いになる。

だから前向きな気持ちで、自分が好きな自分になりたい。自分でいたい。
自分の目指す自分になりたい。自分の「なりたい自分」になりたい。
その「なりたい自分」がよく分からないから、「何かになりたい」。

「何かになりたい」っていうのは、「自分がどんな人間になりたいのかよく分からないけど、現状が嫌だから、とりあえず何かになりたいけど、それがわかるまでは動き出したくない」の略だと思った。
つまり、思考停止の言葉。

だって、そういうこと具体的に考えるのって、大変だから。
「なりたい」「何か」も「なりたい自分」も抽象的で曖昧だし。

しかも、具体的に何かを目指して、努力の末辿り着いた先で、「え、あれ、こんなもん?」って肩透かしをくらうことだってもちろんある。

やってみないと、なってみないと、結局分からないんだ。

一度そんな目に合うと、新たな目標ができても、前回の二の舞になるかもしれないと、躊躇してしまうかもしれないけど、まぁそれなら、目標達成までの過程を引き伸ばして楽しめば良いわけで。その途中でまた何か別の何かが見つかるかもしれないし。とにかく一歩踏み出してもがいてみるのはいい事だと思う。
目標を達成した先が虚無でも、それまでの努力はなくならないし。

「何かになりたい」「何かがしたい」って、やってみなきゃ絶対にわからないことなのに、頭の中でこねくり回してる時間が一番無駄だと思うから、そういう時は勇気を出して、とにかく一歩踏み出したいと思ったという話でした。

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