スポーツ漫画やら恋愛漫画やエッセイが苦手だった
学生の頃、自分のことを「普通」や「平凡」以下だと思っていたから。劣等感のせいで、読めない本がいくつもあった。
部活で汗や涙を流しながら、仲間と切磋琢磨し合うようなスポーツ漫画が苦手だった。
汗は汗でも、学校で僕がかいていたのは冷や汗だ。それも部活ではなく、ただ教室に存在するだけで。
涙が出るほどの出来事はなにもなかった。あんまりにも何もなくて泣きたくなることはあったけど。
感動の涙も、歓喜の涙も、辛苦の涙もない、当たり障りのない日々だった。
恋愛漫画が苦手だった。
恋人を切望する、恋愛漫画の登場人物たちは、たいてい友人を持っている人たちだったから。人間関係を築ける人。
自分としては、友達がいる時点で既に羨ましいのに、その上、恋愛で一喜一憂している人たちを見ると「友達いるくせになんだよ!大事なもの、もう持ってるじゃないか!十分しあわせだろ!」というひねくれた気持ちが邪魔をして、物語を純粋に楽しめなかった。
僕は、部活動に打ち込むこともできず、友人関係にも悪戦苦闘していた。
だから、スポーツや恋愛をテーマにした同年代のキラキラした物語は、現実の自分の置かている状況との溝が深過ぎて、読めなかったのだ。羨ましさとか妬ましさとか、疎外感とか、そういう感情が先行してしまうから。
エッセイもそう。特別な体験をした人のエッセイは言うまでもなく、「平凡な〜」とか「普通の〜」と銘打った人たちの日常を綴ったエピソードの、その全てが僕には眩しくて、羨ましすぎた。
あの頃、「普通にさえなれない人間の、何もないけど死にたい気持ち」がまるまる一冊書き綴られたようなエッセイがあれば、僕はエッセイも好きになって、読み耽っていたと思う。
僕は、羨ましさや妬ましい気持ちがあると、途端に誰かの幸せを喜べなくなったり、誰かの悲しみに共感できなくなったりする人間なのだ。学生の頃は特にそうだった。
だけど、大人になって、羨ましさや妬ましさという感情がずいぶん減った。
いや、減ったというよりも、今までうまく言語化できずに「羨ましい」や「妬ましい」のカテゴリーにポイッと分類していたもやもやした感情をもっと分解して、より適切なカテゴリーに分類できるようになった。
近づいたり遠のいたり、距離を自分で測って物語を読めるようにもなった。
そもそもの、本や物語への精神的依存度が下がった。
そうして、あの頃、本当は読みたかったけど、読めずにいた本を大人になってから読む機会が増えた。それがとても嬉しい。