山小屋で住み込みアルバイトをしてみてよかったと思うこと
20代の頃の夏の間、数年間山小屋で働いていた。
今日は働いてみてよかったと思ったことを書こうと思う。
「大自然の中で生活できたこと」
「いろんな生き方をしている人たちに実際に出会えたことで、ホッとしたこと」」
この2つだ。
「自然が大好きだから山で生活してみたい」というのが山小屋で働き出した大きな動機のひとつだったので、山小屋で働いてみてよかったと思うのはやっぱり自然に関することだ。
夕日とか、日の出とか、雲海とか、ブロッケン現象とか、大きな虹とか、遠くで下界に降り注ぐ雷とか、上から見下ろす小さな花火とか、台風とか。
台風を山で見れたのはよかった。僕は山が好きな気持ちと同じくらい、もしくはそれ以上に山を畏れているから、悪天候時は絶対に山に入らない。台風時の登山なんて、もっての外だ。
だけど、山で働いていると、台風を山小屋で過ごせるのだ。山で体験する台風は凄まじかった。本当に。台風によって小屋の屋根や壁やドアやら窓やら、いろんなものが破壊されて大変な思いもしたけど、それでも台風はいい思い出だ。お客さんも基本ゼロだし。ただし、台風時でも稜線を歩いてくるヤバイお客さんは意外といた。
話が逸れてしまったけど、とてつもなく美しい景色の中で生きられて、僕はそれだけでもだいぶ心が満たされていた。
嫌なことがあっても、大自然の景色を見れば、心が全回復!なんてことはないけど、荒んだ心の十分の一くらいは癒してくれた。
こんな景色が見られて、しあわせだなあと思わせてくれた。
いろんな生き方をしている人たちに実際に出会えたことで、心がホッとして、自分のことを少しだけ肯定できたことだ。
夏は山や海、冬はスキー場を転々としてる人
海外生活と山小屋生活を繰り返している人
ワーホリや海外旅行の資金を貯めに来てる人
とにかく稼ぐためにきた人
山が好きで働きに来た人
「なんかすごい場所」で働いてみたくてやってきた人
下界での仕事を一旦辞めて人生を考えにきたいろんな職業の人々
写真が撮りたくてきた人
フリーター
大学生
なんとなく来てみた人(なんとなくでこんな所に来れるなんて、本当にすごい)
山登りをしたことがない人も一定数いたことが驚きだった。山に登ったことがなくて、こんな環境であることを、情報でしか知らないのに、飛び込んでこれるものなんだな。
山道を車で長いこと進んだ先の、登山道入口から徒歩5〜6時間の標高2500m。
周囲に店はもちろんないし宅配も届かない。
お風呂は週2〜3回だし、きつきつの相部屋。
この3つの情報だけでも、そこら辺のリゾートバイトとは雲泥の差である。
また話が逸れた。
いろんな人がいて、いろんな考え方、いろんな価値観、いろんな仕事、いろんな生き方がそこにはあった。
何事も全力で生きてる人もいれば、まったり自分のペースで生きてる人もいた。
みんなでワイワイやるのが好きな人もいれば、休憩時間もご飯の時も寡黙な人もいた。
それらはみんなバラバラだったけど、みんなそれなりに大変そうで、楽しそうだった。
「就職なんて生き方、考えたこともなかった」
と、同じ年齢の友人にさらっと言われた時の衝撃は今でも覚えている。
僕は「就職以外の生き方なんて、考えたこともなかった」人間だった。
やりたい仕事があったわけでもなかったのに。
就活で一番重視したのは、仕事内容ではなく、安定と福利厚生だったくらいだし。
芸能やスポーツ、起業やフリーランス、自分の夢のためにバイトで食いつなぐ、自由にやりたいことをやりながら生活する。
そんなかっこいい生き方は、想像すらしなかった。
僕の父は高卒後ずっと同じ会社に勤め続けていたし、周りの大人たちも、そういう生き方をしている人ばかりだった。そういう生き方っていうのは、中卒、高卒、大卒後、すぐに就職し、基本的にずっと同じ会社に勤め続ける生き方だ。僕の周りの数少ない友人たちも、みな当然のように就職していた。
就職以外の生き方は、テレビや本や、ネットの向こう側の、遠い遠い別の世界の生き方だった。僕の現実にはそんな人はいなかった。
テレビや本やネット越しではなく、実際に自分の足で歩いていった先で出会ったいろんな人たちの、生の声を聞いて、やっと実感として、「この世界にはいろんな人がいるんだ」と思えたのだ。現実にいるのだと分かった。
きっと、「山小屋でこんな多様な生き方をしている人たちと出会った」と言うようなことが綴られている文章を読んでも、僕は「へー」と読み流していただろう。
知識として知ることと、実際に経験することの差は、とんでもなく大きい。
いろんな人に出会う度に僕は、いろんな生き方に魅了されて憧れたり、羨ましさと妬ましさで発狂しそうになったり、自分の何もなさに少し絶望したりしながらも、それと同時にいつもほっとしていた。
どうして、ほっとしてるんだろう。
ほっとすると言うのは、どういうことなんだろう。
自分でもどうしてほっとするのか長いこと、よくわかっていなかった。
「ほっとする」というのは「自分が許されている気がする」ということだと思う。
僕はずっと自己肯定感が低かった。
小さい頃から「普通」のことが「普通」にできない自分が惨めで恥ずかしくて、嫌いだった。
誰に何を制限されたわけでもないのに、僕は誰かに生きることを許して欲しかった。自分を許せない一番の人間は自分自身で、僕は自分自身に許して欲しかったんだということにはずっと気づいていたけれど、それはとても難しいことだったから、手っ取り早く、誰かに許して欲しかったのだ。
いろんな生き方を実感として知ったことは僕にとって、とても大きな意味を持つ出来事だった。
自分が囚われていたものに気づいて、自分が何に苦しんでいるのかを考えるきっかけになった。
長年思っていた「誰かに許されたい」という感覚がなんなのかを、なんとなく掴むことができた。「誰かに許されたい」と言う感覚は、「誰かに肯定してほしい」と言う欲求で、自分で肯定できない限り、他人からの肯定も受け入れることはできないのだ。それに気づけた。
だから、自分を自分で肯定しようと思えるようになった。
誰かに許されたくなったり、自分自身を特に意味もなく否定しそうになる時は、山で出会った人たちのことを思い出す。
「いろんな生き方があって、僕も僕の生きたいように生きればいいんだ。」
山で働くきっかけとかなんとかはこちら。
自己肯定感について書いたnoteはこちら。
追記
小さい頃から宇宙を想像して、ちっぽけな自分を俯瞰して、ほっとしていたのも、「許されたい」とか「自分を肯定したい」という気持ちの現れだったのかなと考えるようになっている。
ここで触れてる件。
明日はそのことについて書こうと思う。