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或る男の回顧録

聖域から彼女の声がする。
「タバコの一つや二つ、供えてくれたって良いじゃないか。」
あの時に俺の隣で語っていた口調と声そのままに、彼女が俺の耳元で笑う。
「あんたにはまだ話したいことがあるんだ。」
タバコの煙の匂いまではっきりとわかるほど、それは紛れもなく彼女だ。
「あんたの子どもも、随分と可愛い子だね。とはいえ、あたしはあんたの持ってる写真でしか見れないわけだけど。」
背後から聞こえたと思った声は、正面に移動して。
そうと思えば隣から聞こえてくる。
「もう18だっけね。立派に巣立ってあんたも鼻が高かろうに。」
幻聴と幻臭と、幻触だ。
実際に彼女がいるわけではない。
わかってる。
「あれから10年か。早いもんだね。」

話しかけてくる声は、年々増えている。
あれからすぐに嫁に先立たれ、男手一人で娘を育て上げて。
娘の結婚式も終えて。
残されたのは俺一人と、うざったい幻覚。
最後に彼女の声ではない声を聞いたのは、はたして何年前のことか。
それすらも、思い出せない。

「今まで話を聞いてくれた礼だ、ここに来てくれたら話ぐらいは聞いてやる。」
肩に手を置かれた。

「あたしは一人だったけど、あんたは一人じゃない。あたしがいるからね。」

彼女が呼んでいる。

その声に、俺は――

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