「何もしなくていい時間」=「何をやってもいい時間」
「自分にとって、本当に一番いい状態は、どんな状態なのか」ということを、ここ最近ずっと考え続けている。今の状態がいいのか悪いのかと言えば、特に良くもないし悪くもないというのが実際のところだ。日々を過ごしていて、楽しくて機嫌のよい状態を“いい状態”とするならば、そういった状態の時もあれば、「ああ、自分はダメだなあ」と思ってしまうときもあり、それは悪い状態なのだろう。
確かに、自分にとっての“いい状態”が続くわけはないし、波はあるだろうから、なるべくなら“いい状態”が相対的に長い、という形になりたいものだ。そう考えたとき、自分が心地よいのはどんなときかというと、「自由な時間があり、一人でいて、まあまあ自然を感じられる」ときなのかもしれない、と思うようになった。
まずもって自分に一番必要なのは、「自由な時間」なのかもしれないと思うようになっている。可処分時間とでもいおうか、何もしなくてもいい、何をしてもいい時間が長ければ長いほど嬉しい。別に人に会うのが極端に嫌いなわけではないが、勝手にいろいろ気を遣ってしまうことが多く、その割には人に対する思慮も足りないので、失礼なこともしてしまうことが多い。人と会うというだけで、プレッシャーを感じてしまうのだ。一日の中に「出かけて行って、人と会う」というスケジュールがあると、朝からドキドキ、というかちょっとしたプレッシャーを抱えている。一日の中で何時間かは、自分を捨てなければならない的、謎なプレッシャーかもしれない。その中には、出発時刻までにやらなければならないことが出来るのかどうか、という心配なども含まれている。とにかく落ち着かない。
最近は外に出ないので、そのプレッシャーがなくて自由である。ただ、そうなるとダラダラしてしまうこともあり、いい面と悪い面の両方がある。また、人に会わないことで、もう自分は忘れられてしまって何もできなくなるのではないか、という不安もあったりして、これはもう考えすぎ、病的とも感じる。
ただ、やはり「何もやらなくていい時間」があると、自分はフレッシュでいい状態になる。「何もやらなくていい時間」は「何をやってもいい時間」と置き換えられると思っていて、自由が自分にとって一番いいことなのかもしれないと思ったりする。
「何もやらなくていい時間」「何をやってもいい自由時間」「可処分時間」を増やすためにはどうすればいいか。それは、「やること」「やるべきこと」を減らすことしかない。やるべきことを減らすためには、人からお願いされることや、自分がやりだした無駄なことをやめていく必要がある。そのためには、ある程度、収入とか友人との付き合いとか、社会的評価とかを犠牲にせねばならず、貧乏になるだろう。ただ、貧乏になっても使う分を減らせばいいので、何とかなるかもしれない。
また、可処分時間を増やすためには、やはり「1つのこと」にある程度は集中することが必要であるようだ。僕が「このような生き方をしたい」と憧れてしまうのは、やはり1つのことだけを極め、可処分時間を多く持っている人ばかりだ。僕の今のように色々と細切れにやることをやり、時間がないと嘆いているような人はいない。
そのためにはまず、家族には影響がないように自分だけでも生活レベルを下げ、それほど時間をかけて稼がなくてもいい状態にしなければならないし、その上で、こまごまと「あれをやらなければ、これをやらなければ」と右往左往しないようにしなければならない。また、「これだけやっていればいい」というものを作らなければ。そこまでの道のりは遠いが、やっていきたい。