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ティール組織の本質に関する私なりの考察Ⅱ

以前に「ティール組織の本質に関する私なりの考察」という題で、私たちの法律事務所の設立や運営の経験を踏まえて、記事を書かせて頂きました。
今回は、その後の垂水隆幸さんとの対話、さらには下記の記事を読み、改めて最近考えていることを書かせて頂きます。

■ 「存在目的(purpose)」を改めて考える

ティール組織の3要素の一つに、存在目的(purpose)があります。存在目的について、書籍『ティール組織』は、以下のように記述しています。

進化型(ティール)組織は、組織を生きたシステムと考えている。自らの情熱を持ち、自らが何者かを認識し、自らの創造性を発揮し、自らの方向感覚を持った独立した存在なのだ。そのシステムに何をすべきかを指示する必要はない。ただその存在に耳を傾け、連携し、ダンスに加わり、それが私たちをどこに連れて行ってくれるかを悟ればよいのだ。
フレデリック・ラルー著 鈴木立哉訳 嘉村賢州解説 『ティール組織』334頁

私なりの存在目的(purpose)の理解は、所属するメンバー個人と別の独立した存在として組織を捉えつつ、羅針盤として進む方向を導くものであるというものです。

この存在目的(purpose)と似て非なるものが、ビジョン(vision)やミッション(mission)です。
この違いについて、私は書籍『ティール組織』を読んだ際に充分に理解できませんでした。今回は、その違いを出発点にお話をさせて頂きます。

■ ビジョン(vision)やミッション(mission)とは

そもそも、ビジョン(vision)やミッション(mission)とは、どういうものでしょうか。
統一的な定義や見解はなく、人それぞれであるものの、以下のとおりと考えています。

ビジョン(vision)
組織が重視する実社会における価値観、組織の意義・存在価値を定めた上で、組織が目指すべき場所を示すもの(“Where”)
この目指すべき場所に到達するために、組織の文化、体制、ルール、行動を策定する。

ミッション(mission)
組織が達成したい事項(収益、市場シェア、規模、知名度等)を目標や使命として掲げた上で、そのために何をすべきかという行動指針を規定するもの(“What”)
この行動指針から逆算して、組織の体制、ルール、計画、行動を決定する。

■ 存在目的(purpose)とは

様々な組織が、ビジョン(vision)やミッション(mission)と銘打っています。ただ、上記の定義からすれば、ビジョン(vision)をミッション(mission)として、あるいはミッション(mission)をビジョン(vision)として掲げているケースもあります。
そのため、ある組織のビジョン(vision)やミッション(mission)をどう分類するかは、その内容がどの視座に立ったものか(“Where”なのか、“What”なのか)という点から判断すべきと考えています。

その上で、存在目的(purpose)とは何でしょうか。
上記の『ティール組織』の記述等でも、一義的に定義されているわけではありません。
これは存在目的(purpose)そのものが、流動的かつ個性的(属人的)なもので、定義づけしにくい性質のものであるためと推察しています。

その点を踏まえつつも、あえてビジョン(vision)やミッション(mission)から敷衍して定義づけをするとすれば、以下になると考えています。

存在目的(purpose)
この組織は、なぜこの社会に存在するのか、その存在の意味自体を問い、その意味から生まれる、その時点の在りたい姿を確認するもの(“Why”)。
その組織、さらにはその構成メンバーが在りたい姿で在れるために、何ができるかという観点で、行動、仕組み、文化が構築される。

■ 視座のパラダイムシフト(外から内)

上記のとおり、存在目的(purpose)をビジョン(vision)やミッション(mission)との横並びから定義づけた場合、その違いはあまりないという印象を受けるかもしれません。
しかし、その違いは、ビジョン(vision)とミッション(mission)の間にある差異と比較して、格段に大きいと考えています。

それは、存在目的(purpose)と、ビジョン(vision)・ミッション(mission)では、起点となる視座が全く異なると考えているからです。

ビジョン(vision)・ミッション(mission)の視座は、「成りたい・成らなければならない(have to)」というものです。
すなわち、目標・結果を定め、その目標・結果を実現するために逆算し、しなければならない行動を決定するというアプローチです。これは、株式会社森への創業者の山田博氏が指摘する「Have(結果)→Do(行動)→Be(あり方)」と同じだと考えています。

他方、存在目的(purpose)の視座は、「在りたい(be)」です。
自分たちの在りたい姿がまずあり、その姿で在れるために何をしたいか、ということを決定するアプローチです。山田博氏が指摘する上記とは逆の「Be(あり方)→Do(行動)→Have(結果)」と同じです。

両者は、①ビジョン(vision)・ミッション(mission)が、社会、市場、さらには顧客といった組織の外側の存在や要因に大きく影響を受ける結果を起点にする、という外的なアプローチであるのに対し、②存在目的(purpose)は、組織やメンバーの内にあるもの、湧き出るものを見つけ、それを起点とする、という内的なアプローチである、という質的な差異が存在します。

さらに具体的に述べれば、①ビジョン(vision)・ミッション(mission)は、市場でのポジション、顧客満足度、他社と比較した優位性、社会的な要請といった外的な要素をまず考慮し、他社との比較の中で、自社の社会や市場における相対的なポジション(立ち位置)を決定し、それを目指すものと言えるかもしれません。
他方、②存在目的(purpose)は、他の組織ではない、この組織でまず自分たちが何をしたいか、実現したいことは何か、という内省を繰り返しながら湧き上がってくるものであるため、外的な要素から導かれていくものではないと言えます。

フレデリック・ラルー氏も、2019年に開催されたTeal Journey Campusの講演で「存在目的(purpose)について、存在目的(purpose)を作らないといけない、という誤解があると感じている。組織は、その組織なりの目的がある。それは自分たちが作るものではない。自然と組織の目的が出来ていく。」「Listen what organization naturally go!」と述べていました。

この質的な差異は、成人発達理論からも説明できると考えています。
上記の定義からすれば、①ビジョン(vision)はグリーン(相対主義的段階)的なアプローチ、ミッション(mission)はオレンジ(合理的段階)的なアプローチであり、意識段階におけるグリーン(相対主義的段階)もオレンジ(合理的段階)も、ケン・ウィルバー等によれば、いわゆる第一層(1st Tier)に位置しています。
他方、②存在目的(purpose)は、まさにティール(自律的段階)的なアプローチで、成人発達理論上の意識段階も、統合的段階と呼ばれる第二層(2nd Tier)に位置するものです。
この第一層(1st Tier)と第二層(2nd Tier)という階層的な差異が存在するため、「起点」という質的に決定的に異なった違いが生じていると考えています。 

存在目的とは

■ 「在りたい」視座から生まれるもの(羅針盤上の矢印)

この「在りたい」という視座は、結果から逆算する「成りたい」という視座と比較した場合、組織、メンバーの能力を引き出し、発揮するために非常に効果的です。

そもそも結果の全てを自分たちだけでコントロールすることはできません。マーケットシェア、競合他社との優位性、さらに利益すらも、顧客からの売上によって発生するものです。そして、市場(マーケット)、競合他社、顧客は、全て自分たちの組織の外側の存在です。さらには、コロナ禍を始めとする災害の発生といった外的環境も大きく変化し、先行きが不透明な時代です。その中で、結果をコントロールすることは原理的に不可能であると思われます。

そのような自分たちでは到底コントロールできないものを目標として掲げ、その実現に全力を尽くす、ということ自体、短期的には達成可能であったり、偶然にも外部環境と適合することで上手くいったとしても、原理的に不可能なものを実現しようとする以上、歪みが生じたり、組織やメンバーが疲弊してしまうのではないでしょうか。
また、結果を求めすぎるあまり、確実性の高い前例を踏襲しがちになり、手段や方法が硬直化します。さらには、極めて将来が不透明な昨今では、どうしたら結果が出せるか分からない、といった思考停止の状態に陥る危険性すらあると考えています。

では、「在りたい」という視座はどうでしょうか。
「在りたい」とは、自分たちの内にあるものなので、外的な要因や環境と距離を置いて、自分たちのやることを純粋に形にして、実行することができます。また、自分たちの中から湧き出るものなので、モチベーションや組織へのエンゲージメントが高い状態で業務ができます。
さらに、自分たちの中から生まれるものであれば、他社、さらには仲間との競争すら生じないため、委縮したり、失敗を恐れることなく挑戦することが可能になりますし、失敗しても再びチャレンジし続けることができるはずです。そうしていくうちに、自然と創造性に富んだ成果物が生まれ、顧客に満足してもらえる成果につながるのではないでしょうか。
まさに、理屈の上でも、結果から逆算する方法より結果が出る可能性が高いアプローチと言えます。

なお、先ほどティール組織における存在目的(purpose)を羅針盤と位置付けましたが、この「在りたい」という視座こそが、組織が進むべき方向を指し示す、羅針盤上の矢印に当たると考えています。そして、どれだけ自分たちの「在りたい」ものを深掘りでき、それに近づく選択ができているかが、前回のティール組織に関する記事で言及した「深さ」の一つの指標であると考えています。

■ 「在りたい」で在り続けることに求められる強靭さ

そうだとすれば、「在りたい」姿を起点とするアプローチは、メンバーのモチベーションや組織のエンゲージメント、さらには結果の面からも優位性があり、これを採用しない手はありません。
ただ、現時点でこのような「在りたい」組織であるためには、ある程度の強靭さの継続が求められると感じています。

私たちがこれまで受けてきた教育システム、望まれるキャリアパスのいずれも「在りたい(be)」からのものではなく、「成りたい(have to)」からのものです。
「我々はこの世に生を受けたからには、使命を果たさなければならない」といった趣旨のスローガン、さらには「成功」「成功者」という漢字の表記が端的に示しているように、私たちは、ある目標や結果を定め、それに一生懸命になることが当然の義務のようになっています。

これは、狩猟時代から連綿と続く人間の生存本能(=自然(外的な存在)をコントロールして生き残らなければならない)に由来するものと考えています。自分たちが生存するために物資が必要です。そして、この物資を充足し、生存本能を満たすために、人類は農耕文明、そして資本主義を生み、現代に至っています。そうであるとすれば、その発展プロセスや「成りたい」という視座は、私たちにとって必要不可欠なもので、必然であったと考えています。
そして、そのような考え方が主流を占めている現状では、「在りたい」状態で在り続けることは、未だ少数派(マイノリティー)であると思われます。本当にそれでうまくいくのか、という外部の意見にさらされることもあるでしょう。
また、先ほど述べたように、私たちは「成りたい」という見地からしか教育を受けてこなかったため、その価値観にどっぷりと浸かり、慣れてしまっています。だからこそ、自分たちの中で「成りたい」と「在りたい」が葛藤し、疑心暗鬼になることも多くあるのではないでしょうか。
さらに、結果を求めないとしても、結果自体は事実として目の前に厳然と現れます。短期的には結果が出ないこともあるでしょう。それによって、自信を失いかけたり、不安になってしまうこともあるはずです。
もっと言えば、自分たちの内にあるものであるが故に、誰かが教えてくれるものではない、あるいは、そもそもこれが答えであるかすら分からない、という不安定さや戸惑いもあると感じています。

そのような軋轢、葛藤、不安、戸惑いからすれば、外的環境に由来する苦難や試練より厳しいものかもしれません。

ただ、「そんな葛藤や不安に目をつぶって、ただ前に進めばいいじゃないか!」と、私は全く思いません。
葛藤や不安があっていいんです。

その葛藤や不安を抱えながら、眺め続けること、そのプロセス、さらには葛藤や不安の中にこそ、自分たちの「在りたい」姿のヒントや答えがあるはずと考えるからです。
さらに言えば、葛藤や不安の最中に対峙する片側には、実は「在りたい」ものが潜んでいます。その片側の奥底(シャドーやトラウマの先という意味も含みます。)にあるため気付きづらいものではありますが、だからこそ、もう一方の片側とギャップが生じ、葛藤や不安を感じるのではないでしょうか。
そうであれば、葛藤や不安は、片側にある「在りたい」ものの存在の気づきを促すメッセージとみることも出来るのではないでしょうか。

ただ、それを信じて逃げずに正対すること、さらに持続することは、苦しいが故に、強靭さが求められると考えています。

この強靭さを継続してサポートできる状況をいかに整えられるか、それがティール組織において大切なポイントであり、外部の支援者を含め、関係者に求められるものの一つであると考えています。

■ 最後に

苦しいかもしれませんが、正対し続けた先には、それを経験し乗り越えたことでしか味わえない深い喜びがあるはずです。そして、上記の道行きからすれば、結果も自然と付いてくるはずです。

過剰なまでの物資に満たされた現代社会を見れば、生存本能に基づくアプローチに限界が来ていることは明らかです。
環境汚染を始めとして、私たちの身の回りでも実感として感じられることが多くなっているはずです。組織でも、「こう成らなければならない」という思いから仮面(ペルソナ)を被り、これが本当の自分ではないと感じつつも、その感覚をどこか見ないようにした結果、モチベーションが低下して疲弊する、といった事態は、人間の自然な姿とは到底言い難いように思われます。

ここまで読まれて、現代社会の批判と感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、私は大きな希望を持っています。
『ティール組織』がベストセラーになる、垂水隆幸さんや山田博氏といった成熟した方々がコーチという職業を選択し様々な人をサポートする、ケン・ウィルバー、スザンヌ・グック=グロイター、ロバート・キーガンといった成人発達理論の思想家・研究者たちがYouTube等で発信する、日本でも門林奨氏、鈴木規夫氏、加藤洋平氏といった方々が深い理解に根差した極めて良質な自らの見識を発信する、といったように、例を挙げればキリがありませんが、私たちが触れたいと望めば簡単にアクセスでき、それによって多くの気付きや学びが得られ、サポートを受けられる環境が、私たちの身近に実は整っています。
さらには、近年のSNSやClubhouseといったインタラクティブなコミュニケーションツールという技術の進歩のおかげで、私たち自身が主体的にコミュニティを形成し、対話を重ねることで刺激を受け、自らの深みと気付きを促すことが容易になっています。

そういったことからすれば、裾野は大きく広がりつつあるのではないでしょうか。
100年前、50年前、さらには10年前や5年前を想像しただけでも、色々な所から同時進行で来る力強い鼓動の高まりを感じずにはいられません。
コロナ禍は未曽有の危機ではありますが、一方で、私たちに内なるものを観つめざるを得ない時間やきっかけを作り、その流れを確実に加速させてくれています。
そして、その流れのままに、賢人たちの考えや意見に私たちや多くの子供たちが触れ、感化されていけば、きっと「在りたい」組織や「在りたい」社会が実現する日は遠くないと信じています。

今回は、ティール組織の「存在目的(purpose)」に焦点を当てて記事を書かせて頂きました。ただ、ティール型(自律的段階)としての存在目的(purpose)にも、限界があると感じています。そういった限界は、上記の垂水隆幸さんの記事が鋭く指摘しているところですが、私なりの考察もいつか記事書きたいと考えています。
長文になってしまいましたが、最後までお読み頂き有り難うございました。