「勝」「負」の意味を再考しながら、今を生きる
2021年を振り返って
2021年も早いもので、あっという間に年の瀬を迎えています。
今年はコロナ禍が続く中、東京オリンピック、その他様々なプロスポーツで有観客試合が再開され、改めてスポーツの意義や素晴らしさを実感する機会も多かったのではないでしょうか(「有観客」という言葉自体が、コロナ禍以降に使われるようになりましたよね。)。
そんな中、私は、ご縁があって、あるプロスポーツの指導者と1年を通じてお話する機会を頂きました。
その機会の中で率直に感じたことは、スポーツの指導現場の葛藤と悩みです。
「チームを勝たせたい」や「選手やスタッフに成長してほしい」という気持ちとそこから発せられる言動、モチベーション高く、熱を持って接すれば接するほど、伝える側と受け取る側のギャップが生じ、逆に選手やスタッフの気持ちが離れてしまうことがある、さらに客観的に見たときに、その言動が行き過ぎた指導と評価されるケースがあることです。
これは企業、その他の組織の人間関係でも、同様に当てはまるのではないでしょうか。
仕事柄、様々な企業や組織の方と接する機会が多いのですが、上司の部下に対する教育、組織が達成したい目標やミッションを実現するための時には過剰といえるまでの指導など、結果的にパワーハラスメントと客観的に評価されてしまうケースが数多くあるように感じます。
今回は、そういった具体的なケースに少なからず接している中で、私なりに考えていることを書かせて頂きます。
勝負の世界
プロスポーツは、結果が求められる世界です。この「結果」とは、様々な事柄を含んでおり場面・場面によって異なりますが、最たるものが試合の「勝ち」「負け」ではないでしょうか。
ビジネスの世界、さらには私たちの身の回りでも、ライバル企業との争い、組織内の出世競争、新卒採用、受験など、私たちは、様々なものを勝負事として捉え、「勝ち」「負け」という形で、結果を受け容れています。
弁護士も、裁判は、その結果が「勝訴「敗訴」と区別されることからすれば、勝負の世界に身を置いているといえるでしょう。
近年は「勝ち組」「負け組」という言葉が生まれ、一度「負け組」に入るとそれが固定化し、再起を図ることが難しいという雰囲気もあるように感じます。
このように私たちは、あらゆる日常において「勝負」という言葉を用い、その結果を「勝ち」「負け」と評価しています。
それでは、これほどまでに私たちが当たり前のように使う「勝負」というものは、一体何なんでしょうか。
武術に由来する歴史的背景
勝負とは何だろう、と色々考えているうちに、日本特有のものとして、武術がスポーツとして導入された歴史的背景が存在する、という考えに行き着きました。
中村信二氏の『道の精神とスポーツ武道の精神性を考える―』という論文が非常に参考になったのですが、要約すると、武術(武道)は、人間の闘争に源流があり、その勝敗は、対立者同士の単なる優劣関係にとどまらず、人間の生命に直接関係するものでした。そのため、武術(武道)は、絶対的な勝利を獲得するための技術・法則として体系が整えられました。
他方、スポーツ競技における勝敗とは規定されたルールの範囲内で勝敗を決定するものであり、人間の生命や生活と本質的な関係はありません。
この武術は、明治以降に海外から移入したスポーツによって、スポーツ化し、学校教育のプログラムにもなりました。
スポーツも、日本では、逆に武道化され根付くことになりました。その結果、私たち日本人のスポーツ観は、多分に武術(武道)的であると同氏は述べています。
「それでも明日はある」という現実
このように我が国には、負ければ即死、という武術から出発し、教育手段として武術が導入され、それが海外から持ち込まれたスポーツに置き換わっていった、という歴史的経緯が存在します。そういった経緯からすれば、武士道にもみられる、ある種の死生観をまとった勝負観が、私たちの根底に今も流れ続けているという側面は否定できないように思われます。
これは、スポーツだけなく、私たちの日常の様々な出来事を勝負として捉え、「勝ち」「負け」という結果として受け容れるという姿勢にも、大なり小なり影響を及ぼしています。
プロスポーツだけでなく、ビジネス、さらには家庭でも「これが出来なければ(あるいは結果が出なければ)、明日は無いと思え」といった言葉を未だ耳にするという実情が、私たちに対する影響の度合いを端的に表しているといえます。
しかし、本当にそうでしょうか。
「明日は無い」という言葉は、かつての侍同士の勝負では負ければ即死ですから、明日はありません。
現代に生きる私たちはどうでしょうか。幸いにも、私たちの身の回りに起きる勝負事(自分以外の第三者と競うこと)で、結果が好ましいものにならない、すなわち「負け」ても、死ぬわけではありません。勝負事に勝っても負けても、生き続けます。明日があり、明日を生きなければなりません。そして、(好む好まざるにかかわらず)明日以降も生き続けるのです。
そういった現実が厳然とあることを踏まえると、死生観を伴う武術に由来する勝負観は、今の現実に必ずしもマッチしていません。
負ければ即死、という感覚を(意識的であれ、無意識的であれ)強く持ちすぎた場合、「負け」という結果を何とか排除するために、力みや歪みが生じることがあります。それが、行き過ぎた言動や指導、自己肯定感の低下、他者や自分という存在の否定といったものに繋がります。
さらに言えば、現代は結果に対して非常にシビアになっていると感じます。
SNSの普及も相まって、一旦、「敗北者」「失敗」といった烙印が押されてしまった場合、プロスポーツであれ、会社であれ、社会的な復帰を果たすことが容易でなくなっていると感じます。
過ちを犯したのであれば、因果の法則からすれば、それに見合った報いを受けることになります。それは、本人が立ち止まって反省や自覚を促すことになるため、再発防止に向けた取り組みとしても大切です。
ただ、現代社会は、この過ちと報いのバランスが失われている場面が多くあるのではないでしょうか。
過ちを犯した人の罪を軽くしたい、ということではなく、その人たちも、同じく明日はあるのです。あまりにも強すぎる様々な方面からの制裁は、その人たちの明日を、社会への復帰を閉ざすという形で失わせてしまう、といったことになりかねません。
それで良いのでしょうか。
「勝ち」とは
私たちには、自らが主体的に関与できるものと関与できないものが存在します。
「徹底的に勝ちにこだわる」は、私たちの姿勢であり、自らが主体的に関われるものです。
他方、勝負の結果はそうではありません。相手の力量や調子、勝負事の性質やルール、周囲の環境、といった様々な要因が、結果に間違いなく影響を及ぼします。それは私たちがコントロールできるものではありません。
さらに言えば、そもそも「勝ち」とは、何をもって、この言葉が意味するものが顕現するのでしょうか。
プロスポーツであれば年間シーズンなのか、一試合なのか、何を結果とするかで変わります。
裁判も同じです。紛争は、企業間であれ、必ず背後に人間の感情が渦巻いています。ただ、裁判は法律上の要件を充足するか、という点に主にフォーカスして判断する紛争解決手段であるため、100%背後にある感情を反映させることが難しい場合が多く存在します。例えば、離婚事件は、人間関係のわだかまりといった感情的な要素が強いものですが、最終的に財産分与、慰謝料という金銭等で解決を図らざるを得ず、「法」的な紛争解決手段に拠ることの限界が存在します。
だからこそ、一時点の事象を捉えた紛争が裁判によって勝負がついても、必ずしも全てが昇華されていないケースが存在し、江戸の敵を長崎で討つ、というように、時を経て別の形で紛争が再発するといったことが少なくありません。
短期的な裁判の勝訴後に別の紛争が生じ、争いが再燃するといった事態になった場合、全体からみれば、自分たちの意に沿わないことが生じることが多分にあるはずです。
その場合、短期の紛争で得た勝訴という結果は、「勝ち」だったのでしょうか。
先ほど述べたとおり、ある試合や争いがあっても、私たちは死ぬことはありません。その後も、私たちの日常は続き、日常の中で生きていきます。
そして、何度もそういったことが続けば、「負け」ることもあるはずです。
このような連綿と続く私たちの人生を踏まえたとき、「勝ち」というものを、どう捉えればよいのか、そもそもの位置づけや定義すら、徐々に曖昧になっていく気がしています。
“success”の意味
「勝ち」と似て非なるものとして「成功」という言葉が存在します。
英語では“success”という単語になりますが、“success”には、「連続する」という意味が含まれています(successiveは「(比較なし)連続する、継続的な」、という意味です。)。
すなわち、必ずしも自分たちの意図に沿わない事象が目の前に現れたとしても、それで諦めたり終わらせず、実現するまで連続してやり続ける、その結果が“success”です。七転び八起という言葉がビッタリ当てはまります。
ここで私がお伝えしたいことは、上記の武術的な勝負観を一切捨てて、「負け」という結果を重く受け止めないようにしよう、というものではありません。
歴史的背景に由来する私たちに根付いた勝負観は、様々な出来事を通じて潜在意識にまで入っており、容易に払拭できるものではないはずです。捨てようとするとむしろ顕在意識から除かれるため、知らず知らずの無意識のうちに、そういった勝負観に裏付けられた言動をしている、ということになりかねないと考えています。
むしろ、武術的な勝負観を私たちが持っているということを明確に意識することです。
そんな価値観を抱擁し、明日も続く、という現実を受け容れる、その先に勝負の「勝ち」「負け」というものが、主観的で、相対的なものであるという境地があるのではないでしょうか。
スティーブン・R・コヴィー著『七つの習慣』で「影響の輪」「関心の輪」という言葉があります。
自分たちがコントロールできる「影響の輪」とコントロールの及ばない「関心の輪」を明確に区別し、「影響の輪」に注力することが大切であると、述べています。
徹底的に勝ちにこだわる姿勢は大切です。それは、まさに「影響の輪」です。それが無ければ、私たちは成長できません。
だけど、最後に結果が出なかったとしても、それを「関心の輪」の範疇です。唯そのままに受け容れる。
そういう勝負への在り方が、日本語の「成功」にはない、”success“という言葉の深奥にある真の意味が浮かび上がらせる気がしています。
分断する社会、私たち
ある試合のみの結果を求めるといった例からもみられる通り、「その試合」という短期的・近視眼的な視点は、分断的思考の作用と考えています。それは、スポーツの試合以外の私たちの身の回りにも、実は沢山起きています。私たちは、知らず知らずのうちに、物事を分断・分節して観る癖が付いています。
確かに分断・分節化して物事を捉えることは非常に有用です。
ピアノを始めたとき、最初から同時に両手で鍵盤を弾くことはできません。片手で一つ一つの音を指で弾き、それを連続させ、繋げていくことでマスターしていきます。しかし、それだけをしていれば、曲が完全に弾けるようになるわけではありません。曲は譜面通りに弾けるようになるかもしれませんが、全体の抑揚やバランスといったものは、それでは整えられないからです。
このピアノの例のとおり、私たちは、左脳をフル活用して、世界を分節・分断して捉え、その分節した範囲、あるいはその分節を単に繋ぎ合わせただけのものを世界の全てと捉え、その結果に一喜一憂しがちです。
格差社会、「勝ち組」「負け組」、原理主義、ポピュリズムの台頭、さらには核家族の進行、短期的な成果に着目した成果主義や利益至上主義といった事態まで、私たちは、空間あるいは時間を、分断し境界(boundary)を設け、仲間と敵、内と外、その範囲内で結果すら勝手に作っています。
テレワークという働き方も、ある種の空間的な分断を伴うものです。
そして、この分断は私たちの身体にも迫りつつあります。
SNS、ネットゲームといったサービスを提供するグローバル企業たちは、巨万の富と力をもって、私たちの関心をできるだけ長く引くことに全力を注いでいます。そんな巨大な存在に私たちはなす術がありません。これらに没入させられた私たちは、いつの間にか身体感覚をマヒさせ始めています。さらに、メタバースといった完全バーチャルの世界に入れば、そこでは身体感覚の一部は存在しなくなるはずです。
このように現在のテクノロジーの進化の一つの方向性として、私たちを分断させる作用があると考えています。
つながりを想い起す
分断の先に、果たして何があるのでしょうか。
私たちは、目の前のものを何とか理解したい、処理したい。そんなとき、私たちの視点は、どうしても近視眼的なものになりがちです。都会では、見上げた空ですら、ビルで分断されています。
しかし、物事を観るとき、どの時間軸(短期or長期)、空間軸(村or地球、私と相手or関係者全員)でみるか、「宇宙」の語源は「宇」は上下前後左右という空間全体、「宙」は過去・未来・現在という時間全体を意味するとされており、まさに自分がどの程度の宇宙(時間と空間)をもって、物事に正対するかで、捉え方が大きく変わってきます。
勝負事があってもそこで終わらず、明日が続くという現実からすれば、より広い宇宙をもって接することが、大切ではないでしょうか。
私自身、分断することを否定しているわけではありません。分断・分節という手段を得たことで、私たちは、様々な物事や現象を自分たちの能力の範囲内で捉え、進化できました。思考や世界の理解が進み、あらゆる面で豊さを実現し、享受することができました。その有用性・必要性は、これからも、いささかも損なわるものではありません。
ただ、その分節的(左脳的)アプローチは、限界が来ています。
分節化することで、捉えられない全体、それは福岡伸一先生が唱える生物の動的平衡、量子力学の発展、そしてビジネスの世界でもSDGsやホールネス(Wholeness)、各分野で長期的、全体的な視点をもったアプローチの有用性が正面から唱えられている潮流は、長期的・全体性をもった視点をより適切に機能させなければ、VUCAと呼ばれる、私たちの目の前に起きている複雑な事象や問題に有効に対処できなくなっていることを示す証左といえます。
先ほど「影響の輪」と「関心の輪」の話をさせてもらいましたが、結果は「関心の輪」であっても、どんな結果でも受け容れる、結果を自らが引き受けることは「影響の輪」の範疇です。
自分たちの「影響の輪」と「関心の輪」を区別し、「影響の輪」に自らの意識を傾ける。その中で、自分たちの宇宙(意識する空間・時間)をどこまで拡げられるか、その拡がりを保持しつつ、分節的な思考・世界の理解の手段も同時に活用する。そのような視点の自由な行き来ができるようになったとき、私たちは、有機的なシームレスな繋がりの存在と深さに気づき、そこに身を委ねられるようになる気がしています。
全てを捨てない(Wholeness)
そんな感覚に素直に身を委ねられたとき、短期的、近視眼的な視点だけでは、決して得られない何かが観えてくるはずです。
その視点を持つことができれば、短期的な決戦で、勝ちに徹底的にこだわりつつも、最後の場面で、それに拘らないという境涯に至れるのではないでしょうか。
その感覚は、人それぞれであるはずです。
ただ、それは全ての人にとって、分節的・分断的(左脳的)アプローチと、全体的・俯瞰的(右脳的)アプローチの統合・止揚に他なりません。
自らの思考の癖や価値観を理解し、それも包摂して、世界を眺める。
全て(Wholeness)を捨てない、とは、分節的な思考や私たちの潜在意識にまで刷り込まれた武術的な価値観すら含むものであるはずです。
私たちの「勝ち」「負け」への重くなりがちな拘りや囚われは、人間がこの複雑な世界を理解したいという強い願いから生まれた分節的なアプローチと、生死を分かつ場面で生きるために輝きを放った武術的な視点が、混ざり合って生じたものといえます。
それが教育やスポーツ、さらにビジネスにまで派生し、諸外国とは異なる思考様式やスタイルを形成し、私たちの日常に根付いています。
そういった違いを理解し、意識することは、他の国のやり方や制度、考えを比較し、導入する際にも有用ですし、自分たちに馴染ませるといった観点からすれば必要なことではないでしょうか。
領域(realm)の意識と尊重
私たちの世界は、テクノロジーの進化という場面では分断・分節化の方向が強く、思考の場面では全体性や繋がりを求める方向にあるといえるかもしれません。
そんな真逆の引き裂かれそうな感覚(まさに分断)に囚われそうになりますが、それぞれの特徴を理解した上で、双方が私たちを幸せにするためのツール・手段であるという視座から観れば、別に矛盾するものでも、逆方向のものではないはずです。
横に並べて比較し取捨選択するものはなく、あくまで領域(ケン・ウィルバーの名著『無境界』で述べているrealm)に過ぎず、お互いは両立し、尊重すべきものなのです。
「弱い自分に負けそうになる自分が嫌だ」「弱い自分を奮い立たせて、来年は頑張る」といった言葉を私たちは無意識のうちに使っていますが、その表現もよく見れば、潜在意識まで私たちの勝負観が深く横たわっていることに気づかされます。
そんな自分に嫌気が差しそうになる時もあります。
でも、そのままで良いはずです。
大切なのは、そんな自分に気づき、自分に対して「勝つ」「負ける」ではなく、「負ける」と表現する自分も受け容れる。
それが真の強さであり、自らを前に進める大きな力になります。
その弱さを受け容れることが、自分以外の存在への優しさや慈しみ、理解に繋がり、居場所を作ります。安心できる居場所があれば、その存在は自らの能力を十全に発揮することができます
能力をフルに発揮できれば、結果も望む方向に自然と付いてくるはずです。仮に望む方向になっていないと感じても、それを受け容れて軌道修正し、継続して(successive)歩みを進めることができるはずです。
全体的・俯瞰的(右脳的)思考の方にとって
今回の記事をお読み頂き、全体的・俯瞰的(右脳的)アプローチを生得している方や既にフル活用されている方からすれば、当たり前のことを、なぜこれ程までに重々しく書くのか、という感想を抱かれたのではないでしょうか。
書店、インターネットでも、右脳的アプローチを説明・推奨する書籍や論説に溢れ、もはや全体的・俯瞰的(右脳的)アプローチは当たり前のものとなり、広く普及しています。
他方で、私自身が生来的に分断・分節的思考に慣れ親しんでおり、私を含め、そういう傾向が強い方(特に年配の経営者など)は未だに多く存在します。その立場から見た場合、現在の右脳的思考を重視する傾向は、右脳的思考が形成する世界(勝負にあまり拘らない)と、左脳的思考が形成する世界を、同じ世界にいながらパラレルワールドのように別々に分かつ作用があるという印象を持っています。
それは、まさに右脳的アプローチを重視する世界と左脳的アプローチを重視する世界の分断に他なりません。そして、その分断と、分断に由来するお互いの無関心・無理解が相まって、勝負を重視する左脳的アプローチの世界での「敗者」、に対する制裁の強度が一層増し、社会復帰を困難にする遠因になっていると感じています。
だからこそ、左脳的アプローチ、右脳的アプローチの双方の立場において、互いの領域を強く意識し、尊重しながら、自由に行き来できる形で統合させることの必要性があると考えています。
左脳的思考の強い方は、自らや他者を重くしない、右脳的思考の強い方は、右脳的アプローチが重視される現代だからこそ、改めて左脳的アプローチの大切さ・有用性を見つめてもらいたい、と考え、それぞれの立場からの統合の重要性を述べさせてもらいました(まさにインテグラル理論の「超えて含む」ですね(オレンジにとっては「超える」が、グリーン・ティールにとっては「含む」部分の見直し・再構築が、主たる課題と考えています)。)。
今回のテーマに関する私自身の葛藤
今回の記事のテーマである「勝ち」「負け」をどう考えるか、は、私にとって大きな課題でした。
訴訟事件のご相談を頂いた際、ご相談者は、当然裁判で良い結果を求めて、依頼します。私も、この裁判でどうしたら勝てるか、ということに全力を傾け、結果を強く求めてきました。ただ、そういった望む結果が出たとしても、その後に別の形で紛争が起きるケースを多く経験してきました。
紛争を解決すべき役割であるにもかかわらず、真の意味で紛争を解決できていない。それはどういうことなのか、自分なりに色々と分析し、浮かんだことが、勝利という結果を強く求めすぎた場合、どうしても近視眼的な視点になりがちだということです。その結果、全体が観えなくなり、本質的な紛争解決に向けた取り組みができないばかりか、変な力みや歪みが生じて、望む結果すら自然と遠のいていることすらあることに気づきました。
そこで、本質的な解決を見い出すためには、俯瞰的視点や全体観が必要だという考えに至りました。ご相談者(個人・企業)のその後も長く続く人生、ご家族、仲間、取引先のこと、様々な事情を出来る限り捨てず、含めて、考え抜くことに努めました。それによって、短期的・近視眼的な視点から離れて、何が大切かということは、少しずつ観えるようになりました。
ただ、それだけでは不充分でした。俯瞰的・全体的視点をもって物事に接したとき、全体の行く末から逆算して一つ一つの行動を選択するようにはなれました。ただ、それだけでは、その瞬間・瞬間(微細)の目の前にある物事に、力が出し切れていませんでした。
それは、あまりに様々なことを含めすぎたため、ご相談者から少し離れてしまったということもあるでしょう。ご相談者の依頼事項の結果を出してほしいという期待にも、必ずしも沿えていません。そして、そういった事態に自分も気づきました。自分自身に、どこかに詰めの甘さがある、という感覚は、そういった事態に気づく前からもあり、いつまでも拭うことができませんでした。
じゃあ、このジレンマのようなものをどうすれば良いのか、ということを深く考えました。
その中で、今の自分なりに出ている一つの答えが、未来の結果自体は手放しても、今この瞬間は、「勝ち」に徹底的に拘り、全力を尽くす、ということです。
俯瞰的・全体的視点をもって自分の宇宙を可能な限り広く持つ、それと同時に、眼前にある物事やご相談者のために依頼事項のために、どうしたら良いかを真剣に正対し考え抜く、その視点の移動を、自分の限界まで限り繰り返し反復させた上で、今の瞬間に採るべき行動を選択し、実行する。そして、瞬間毎の移動と行動の選択、実行を、繰り返し、重ねていく。
未来を見据えつつも手放し、見据えた視点を含め「今」という1点に集約する、「今」に自分の宇宙の全てを注ぎ込んで、尽くし、それを続ける。
それが力みを持ちすぎずにジレンマを超克する、目指す在りたい姿勢です。そして、たとえそれが出来ないときがあっても諦めず連続する、それが私が考える“success”です。
終わりに
考え方や思考の傾向は人それぞれです。そうであれば、「勝」「負」に関する感覚も人それぞれであるはずです。
ただ、どんな人にとっても共通して大切だと感じることは、未来・過去にフォーカスするのではなく、今この瞬間を生きる(活きる)ことだと考えています。
指導者の方が、選手のプレーをみて成長したな、と感じた瞬間、スタジアムで観客と一体になれた瞬間、ただただ感動する。だから、この仕事は辞められない、と目をキラキラ輝かせて語った言葉が、耳に残っています。
それを観る私たちも、同じく、選手や監督、チームが今この瞬間を活き、躍動する姿に感動します。
それは、様々な背景を包んで、勝利や時間を超えた先の深い部分で共有・共振する感動です。
この私たちの魂の深い部分で共鳴し合う感覚こそが、あらゆるものを含めた上で今を活きることの素晴らしさを、私たちに教えてくれているのかもしれません。
2021年の終わりを迎え、今年も多くの方から気づきと教えを頂きました。
真摯に今を活きる方に多く触れ、沢山感動させてもらいました。そういった瞬間を感じれたことに心から感謝します。
2022年が皆さまにとって素晴らしい年になりますように。
最後までお読み頂き有り難うございました。