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『Humankind 希望の歴史』を読んで – 人間の善性の気づきとその先

前回の記事から期間が空きましたが、今更ですがユヴァル・ノア・ハラリ氏の『ホモデウス』を、その後ユヴァル氏と最近YouTubeで対談したルトガー・ブレグマン氏の『Humankind 希望の歴史』を読み、人間とはどういった行動原理に基づいて行動選択しているのか、といことを最近考えました。

下記『Humankind 希望の歴史』の紹介にありますが、近現代の社会思想は性悪説が背景にあり、法律を始めとする社会制度も、基本的に性悪説に基づき設計されていると言えます。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163914077

しかし、同書のメッセージは、上記URLに掲載されたYouTubeの著者ブレグマン氏のコメントにあるとおり、「ほとんどの人間の本質は、善(pretty descent)である。」という極めてシンプルなものです(この2分間のコメントだけでも、同書と同じく彼の熱い想いが伝わりますので、是非ご覧下さい!)。

同書は、人類史上、歴史的悲劇と評される出来事であっても、それに関与した多くの人たちは基本的に性善説に基づいて行動していた、あるいは行動を試みようとしていた、ということを明らかにしています。そして、ここ数十年来の各分野の専門家の研究で、過去のこれらの出来事に関する検証・見直しがされ、徐々に私たちの人間観は変容を遂げつつあることを述べています。

同書はブレグマン氏の母国オランダで25万部のベストセラー、世界46か国で出版されるとのことです。このような人間観のパラダイムシフトを促す書籍が世界中で多く関心が寄せられているという事実そのものが、人類の希望であり、素晴らしいことだと感じています。今回の記事は、様々な方のサポートのおかげで私が体感し思案していること踏まえ、感想を述べさせて頂きます。

■ 驚くべき事実

同書は、戦争で多くの兵士が一度も発砲しない、という調査結果を明らかにしています(例えば、1860年代のフランス軍の将校を対象とした調査で、敵国の兵士を含め、多くの兵士が銃を撃つ時、あえて敵の頭上を狙って弾が無くなるまで撃ち合い、それ以外の兵士も他の用事を見つけて銃を撃たない言い訳をする、といった事実が記載されています。)。

また、第二次世界大戦のドイツ国防軍の兵士の高い士気の源泉は、ナチスの基本思想・イデオロギーではなく、実は、友情、すなわち戦友を救うためだった、というアメリカの心理学者モーリス・ジェノヴィッツの調査結果を紹介しています。ナチスの将校は、これを十二分に利用し、新兵が入隊すると、一旦全部隊を退却させ、充分に友情を育ませた後に、全員を戦場に送り込ませることまでした、とのことでした。

他方、第二次世界大戦のアメリカ軍も、退役軍人を調査したところ、米軍兵士は愛国精神ゆえに奮い立ったのではなく、国のためにというより、仲間のために従軍していたことが明らかになっています。

戦争という極限状態でも、どちらの立場も、友や仲間のためといった人間が持つ「善」性に基づいて行動していたのです。
(別章でも、第一次世界大戦が起きた1914年のクリスマスに、前線のイギリス兵とドイツ兵が両軍の塹壕を隔てる無人地帯を挟み、ドイツ兵が聖歌『きよしこの夜』をドイツ語で歌い、イギリス兵が『牧人ひつじを』をお返しに歌い、それをドイツ兵が拍手喝采し『もみの木』を唱って返礼し、しばらくの間、聖歌の応酬をして、最後にラテン語で『神の御子は』を両陣営で合唱する、という感動的なエピソードが記載されています!!)

では、なぜこういった心温まる事実が、これまであまり大きく取り上げられず、今の私たちに新鮮に映るのでしょうか。

■ 「善」なる行動なのに、なぜ悲劇が起こるのか。

その理由の一つについて、同書は、これまで冷笑主義(シニシズム)に代表される、性悪説的(悲観的)な人間観が大勢を占めていたことを挙げています。
性悪説から導かれる他者への「不信」は、相手への無理解につながり、攻撃という行動の正当性を与える大きな要因になります。この不信や無理解を育むものが、著者が指摘する「距離」であり、私なりの表現では「分離」と考えています。

著者は、人間は根本的に暴力を嫌悪する性質を有しており、それを払拭するために軍事技術が進化したと指摘します。棍棒と短剣から弓矢、マスケット銃と手榴弾から大砲と空爆という変化、あるいは敵を人間ではなく害獣と見なして人間性を否定する大衆扇動(プロパガンダ)は、敵との間に物理的・心理的な距離をとるための手法と述べています。まさに、「距離」を作る、「分離」を促すことは、「不信」を醸成し、感覚を鈍麻させる方法と言えるでしょう。

さらに、著者は、この性悪説的な考えの起源を、狩猟から農耕へ転化したことにあると指摘します。
農耕の起源は、西のナイル川と東のチグリス川に挟まれた豊穣な地域にあり、ここでは、狩猟よりさらに労力を掛けずに、作物が育ち食物を獲得できました。そのため、狩猟より得策なもの(合理的な選択)として、農耕を選択したと述べています。

もっとも、農耕は、人類に定住と所有(備蓄物、定住する土地など)を誕生させました。
この所有という争いの原因の発生、定住によって見知らぬ人への不信感が醸成されたことで、人類に最初の戦争がもたらされます。
戦争をするためにリーダーが出現し、リーダーとそれ以外という、支配・被支配(=支配する・支配される)という社会構造・システムが明確に生じました。このリーダーの力と権威の高まりと維持のために、さらなる戦争が利用されました。定住によって狩猟のコツを忘れたリーダー以外の一般民衆にとっても、自分たちが定住し所有する土地を外部から守るため、戦争、すなわち自分たちの共同体以外の攻撃や分離を正当化するものとして、性悪説的な考えが採用されたと指摘しています。

■ なぜこの書籍が注目されているのか

同書で紹介されている実験や出来事の大半は一般に広く知られている著名なもので、目新しいものではありません。また、そこで明らかにされている事実や視点も、新たな発見というより、これまでの先人たちが発表していたものを根拠にしています。
では、なぜ、同書がこのタイミングで世界中で注目されているのでしょうか。

その一つは、著者が凄まじいまでの熱情(パッション)をもって、一貫して人間の善性について光を当て続け、それにより、読者に対し、過去の痛ましい出来事への、盲目的にすらなっていた悲観的な印象を刷新し、人類と未来へ希望を強く照らした点にあるのは間違いありません。

その上で、さらに進んで、同書は、過去の性悪説的な考えや社会システムの採用、現在の性善説的な考えや社会システムへの移行のいずれもが、実は、私たちが現実的かつ合理的な選択をした結果である、という一貫した視点をもって指摘した点にあると考えています。

■ 「合理的」な選択の結果としての生活環境の変化。そして、それに伴う価値観の「合理的」な変容

人類は、ある時に狩猟という生活スタイルを捨て、農耕を選択しました。その選択自体が、上記のとおり、そもそも農耕の方が労力を掛けることなく食物を獲得できたから、という理由にあるとすれば、その選択は極めて現実的かつ合理的なものです。

その後も、この合理性という価値判断により選択した農耕の営みの開始によって、定住と所有が発生し、人口の増加等が相まって、自らの食物の獲得の基盤となる土地を守り、さらには拡大するため、戦争が必要不可欠なものになりました。そして、自分たちの食物獲得のために必要になった戦争を正当化し遂行するため、私たちは(リーダー層のみならず一般大衆も含めて)、性悪説的な考えを自発的に選択したと言えます。
そう見れば、性悪説的な考え・社会システムの採用も、変化した生活環境に適合するための現実的かつ合理的な選択であったと言えるのではないでしょうか。

さらに、著者は、性悪説ではなく性善説的な考えを採用することが、現代における現実的かつ合理的な選択であると述べます。

同書で紹介されたノルウェーの刑務所で、看守は、刑務所は悪い行動を防ぐところではなく、悪意を防ぐところという発想の下、受刑者が正常な生活を送れるよう、最善を尽くすのが自分たちの義務だと考えて、看守全員が二年間の訓練プログラムを受け、受刑者を見下したり辱めたりするよりも、彼らと友達になるよう方が良い、と教えられます。受刑者は個室を持ち、テレビや専用の浴室まであり、看守と一緒にハンバーガーをひっくり返したり、泳いだり、日光浴をしています。
その結果、ノルウェーの再犯率は世界で最も低くなり、「監視」の発想に基づいて厳格に運営されているアメリカの刑務所システムでは受刑者の60%が二年以内に刑務所に戻るところ、ノルウェーは20%にとどまっているとのことです。
このノルウェーの刑務所を見学し、アメリカのノースダコタ刑務所も改革に着手します。この改革について、ノースダコタ刑務所のリアン・バーチェ局長は、「私は自由主義者ではありません。実際的なだけです。」と断言しており、この発言は、これらの改革が、単なる理想主義に基づくものではなく、実は私たちにとって現実的かつ合理的な選択であることを示す好例になっています。

このように、狩猟→農耕→その後の文明の進化・安定、といった生活環境の変化自体を私たちが合理的に選択し、かつ、それに伴って、私たちの人間観、さらにはそれに紐づく社会システムも、(単なる支配者層の支配・抑圧という手段のため、あるいは単なる理想や感情論ではなく)変化する生活環境に適合させるべく極めて現実的かつ合理的な判断をして、自発的に選択・採用していることを、鋭く指摘していると考えています。

■ 変遷の理由(意識の変容)‐私なりの考察

このような生活環境の変化、及び人間観の変遷は、意識の変化に伴うものと私なりに推測しています。

これまでの記事でご紹介したインテグラル理論(成人発達理論)の集合意識の推移、オレンジ(合理主義的段階)からグリーン(相対主義的段階)、その先のティール(自律的段階)を見据える中で、私たちの人間観の基底にある意識構造そのものが、変容を遂げていきます。

オレンジ(合理主義的段階)まで、特にアンバー(順応主義的段階)に顕著にみられますが、基本的に私たちの自我(エゴ)・行動原理は、社会で広く共有される慣習的な規範・価値観(Ex.資本主義)に立脚したもので、外部から受ける刺激、影響に大きく左右され、規定されます。
オレンジ(合理主義的段階)までは慣習的段階とも呼ばれ、慣習的な規範・価値観は所与の前提となっています。様々な思考・行動を選択するときも、この規範・価値観の枠内に留まってしまいます。

それがグリーン(相対主義的段階)に移行する辺りから、自らを支える価値観・世界観そのものを対象化し、その妥当性を検証し始めるようになります。外ではなく、内にあるもの(価値観・世界観)に目を向け、内発的な動機に気付き、そこから行動を選択することを指向するようになります。その結果、外からの規範や慣習、さらには支配・被支配の構造を相対化し、所与ものとして捉えず、少し離れた地点から眺めることができるようになります。
これは、外からの規範や慣習、さらには支配・被支配の構造に依拠することを離れ、徐々に自律的に思考し、個を尊重しつつ、自らの行動を選択することに他なりません。

著者も、農耕によって発生した文明(都市、国家、文字)は、長い間、繁栄をもたらさず、苦しみをもたらしていたが、この二世紀で急速に状況が改善され、平和な時代が訪れていると述べています。
このような自律的な意識への変容は、上記の文明の安定と、インターネット等の普及により、これまで情報の受け取り側でしかなかった一般大衆が、世界中に情報を発信できるようになり、さらに発信と受信の相互作用が繰り返されることで、多くの人たちが自律的な思考を獲得し得る生活環境が整いつつあることが一因にあると考えています。

このような文明の安定に関する生活環境の変化については、ユヴァル氏が『ホモデウス』で指摘するとおり、支配層からすれば、大規模化する他国との戦争に勝利するために、物資供給等の後方支援を含む国民全体の生産性や軍事力を向上させるべく、参政権等の権利の拡張を認めてきました。他方、一般民衆からすれば、これまで弾圧されてきた社会からの自由や権利の獲得を求めたこととつながっています。
このように双方で必ずしもその意味合いが一致しているわけではないものの、私たちの生活環境の変化は、自らが現実的かつ合理的な選択した結果であることは間違いないと思われます。

この生活環境の変化に伴って、私たちの意識も、それに適合するよう、現実的かつ合理的な選択の結果、変容を遂げつつあり、そのような変容に基づいて社会システムが再構築されようとしている、と観ることが出来ると考えています。

そして、その変遷の結果として、既存の出来事の再検証がされ、新たな価値観からの見直しがされ、社会システムも再構築され始めているのだと考えています。

■ 「信頼」に基づく制度設計

このような生活環境や私たちの意識の変容は、社会システムを再構築する際のベースとなる考え方も、結果として変容させます。
「不信」→「信頼」という変容です。

具体的な制度設計(四象限の右下)を見ると、その違いは明らかです。

支配・被支配という社会システムは、その手段として「管理」「監視」が用いられ、その動力源として「不信」が利用されます。「管理」「監視」をエンジンとすれば、「不信」はガソリンのようなものです。支配・被支配という社会システムを強化(格差(距離・分離)の増大)するべく、エンジンである「管理」「監視」を大きくすれば、ガソリンである「不信」はより多く必要になります。それにより、さらなる分離が拡大し、さらに「不信」が増加するという悪循環に陥ります。
企業での社員を管理するための各種制度、刑務所の厳格な規律、さらには一般市民をも対象に実施される各国の集団監視システムといった制度は、基本的には、そういった発想に基づくものと言えます。
同書で挙げられている著名な事件や実験も、この悪循環に取り込まれたため、性悪説的な側面が殊更にフォーカス・強調されるようになったと考えています。

他方、個人の自律性が育まれることで、それぞれの個が尊重されるようになることは、支配・被支配とは異なる社会システムを指向するようになります。管理や監視ではなく、各人の人間性を出来るだけ尊重し、メンバーが自らの内的動機等に基づいた行動が選択できるような環境を整えることに心を傾けます。
それは、支配・被支配といった距離(分離)を緩和させる作用が存在します。そして、この緩和作用の動力源も「不信」ではなく、他者への「信頼」に転換します。

書籍『ティール組織』でもティール型企業の代表例の一つとして取り上げられているFAVI社のCEOジャン・フランソワ・ゾブリスト氏の著書の副題は『人を信じる企業はうまくいく』とのことです。自律性の成熟が比較的早く進んでいると思われるヨーロッパでは、組織の運営でも、経営者と社員の距離(分離)を縮める必要が生じており、「信頼」が十二分に作用し合うことで、経営が上手くいっていることが端的に示されています。

■ その先があるのか

このような自律的な意識への変容の結果として生じる性善説に基づき、相手を理解し、行動選択をする、制度を構築する、ということは本当に素晴らしいことです。今後そういった取り組みを、私たちは一層加速させていかなければなりません。

その前提に立った上で、さらにその発想の先があり得るのか、ということも考えてみたいと思います。
なぜそういった発想に至ったかというと、戦争という一つの究極的な場面において、互いが仲間のためという「善」性に基づいて行動していたにもかかわらず、逆にそれが「仲間」ではない他者の攻撃を正当化することにつながり、悲劇的な結果を招いたという側面が存在するからです。

そもそも、自らを省みた時、私は100%善人だ、と心底感じる人はいるでしょうか。
私自身、他者からの自己承認欲求が強く我が儘だったり、他者に充分な配慮や優しさが示せなかったり、冷たい態度を取ったり、怒りの感情をぶつけたり、と振り返れば、悲しくなるぐらい至らない点が沢山あります。
しかしながら、それが人間ではないでしょうか。開き直るのではなく、醒めた視点でもなく、それが現実と考えています。

また、「善」「悪」は相対的なものです。それが問われた時の文脈(context)によってその評価は変わり得るものですし、さらに自らの成長や価値観の変容によって「善」の中身すら変わります。
何より「善」と「悪」の境界を探り、クリアに分かつことは不可能です。

これは「善」性という価値観に立脚する限界と考えています。

すなわち「善」「悪」という二元論に基づいて「善」を見た場合、「善」をどう定義しようとも、必ず「善」以外のもの(すなわち「悪」)の存在を打ち消すことはできません。
そうなれば、「善」vs「善」であったとしても、相手が自らの「善」の範疇に入らない限り、一方の当事者から見たら「善」(自分)vs「悪」(相手)に、どうしてもなってしまいます。「悪」と見なされてしまうと淘汰され、最終的に居場所が無くなってしまいます。

確かに、自らの善性の範囲を広げることは必要なことで、私たちが不断に取り組み続けなければならないものです。ただ、それだけでは超えられない壁が存在し、距離(分離)を完全に解消できないのも事実です。それを超克することを考える必要があるのではないでしょうか。

さらに言えば、この問題は、支配・被支配という構造そのものに由来すると考えています。
同書では、権力を持つ人と持たない人との認知機能を調べたところ、権力の感覚が、共感において重要な役割を果たす精神プロセス「ミラーリング」(他者の行動や態度を無意識に模倣すること)を混乱させることが明らかになったと述べています。人は、権力を持つと、共感力が薄れ、その結果、他者(権力を持たない人)との距離(分離)を生じさせます。
人は皆、後で述べるとおり「善」「悪」の双方を内包する存在であるとすれば、どんな人間であっても立場(権力を持つor持たない)次第で、どちらかが強く出てしまうものであると言えます。そうだとすれば、根本的な問題は、私たちが「善」なのか、「悪」なのかではなく、そういった「悪」なるもの(階層や権力)を生み出す構造や社会システムそのものをどう変えていくか(距離や分離を出来るだけ作らない)、という点にあるのではないでしょうか。

■ 善悪二元論を超える

私なりの現在の考えは、善悪二元論という発想を捨てる(超える)、そして、その視点に立って社会システムを再構築するということだと考えています。

これは、私たちが自らの存在を振り返れば、自然に観えてくると考えています。

先ほど述べたとおり、「善」「悪」という区別が相対的なもので、その中身や境界すら曖昧であるとすれば、そもそも、それ自体が、それぞれの個人や社会、共同体が作り出した様々な文脈の中で、私たちがその都度作り出している虚構(フィクション)に過ぎないはずです。そして、そのことに気付かされた時、善悪二元論そのもの限界が浮かび上がります。

では、どう考えるか。
私は、先ほど述べた現実、「善」性のようなものと「悪」性のようなものを不可分に内包するものであることを受け容れ、この両極を包含する存在から生じる純粋な内なるもの(動機)(それが、私たちが「愛」と呼ぶものではないでしょうか。)に基づいて行動選択することだと考えています。
それは、前回の記事で述べた「在りたい(be)」という視座を純化させて行動を選択する、ということと同じかもしれません。

■ 円環に生きる私たち

私たちは、全て繋がって生きています。
昨日食べた野菜、今着ている服、さらには仕事に至るまで、私たちは、自分以外の存在の助けや関係性によって生かされています。
この濃密で断絶なき繋がりは、世界中でコロナウィルスが蔓延している状況で、ある国で発生した変異種が、わずか数日後にはるか遠くの別の国の人たちに感染するという事実からも、否が応でも突きつける現実です。

私たちは、他者、自然、地球、宇宙といった、自分以外の存在から構成される円環の中に生きています。
そこには私とそれ以外、善と悪、陰と陽といった明確な区別はないはずです。全てがその大いなる円環の一部だからです。さらに言えば、善と悪といった型(枠)にはめること自体、境界や分離(距離)を人為的に作出するものであり、円環という循環作用を損なわせてしまいます。

その円環の一部として生きる、円環に自分を馴染ませる、溶け込ませるといった感覚に、自分を委ねたとき、善悪や距離(分離)のない世界がそこに在るのではないでしょうか。

この繋がりを意識するようになれば、自分の選択した行動が、周囲に影響を及ぼすこと、そしてそれが回りまわってブーメランとして自分に帰ってくることを体感として理解できるようになるはずです。そうなれば、自分のためと考える思考そのものが、他者、さらには世界のためにと、自然になっているのではないでしょうか。そして、その選択のプロセスには、善なのか、悪なのか、という二元論的な価値基準の物差しが入り込みません。さらに言えば、考慮要素において自分以外の存在を多分に含むため、「自分のため」と考えたとしても、狭小な利己主義に陥らないはずです。

少し抽象的かもしれませんが、その世界に在れた時、私たちの「在りたい(be)」が「成りたい(have to)」の延長ではない、私たちの真の自己(真我・魂)から自然に湧き上がってくる気がしています。

■ ティール以降の成熟

第3回の記事でも言及させて頂きましたが、グリーン(相対主義的段階)は「相対」という名称のとおり、互いに個を尊重するものの、それぞれを等しく重視するため、いつまでも決定できない(Ex.会議が長時間に及んで決まらない)という課題があると指摘されています。
ティール(自律的段階)は、グリーン(相対主義的段階)を超えて含む(transcend and include)段階で、様々な意見や個性を尊重して全てをテーブルに乗せて、「全体(wholeness)」という視点を持って、最も適切なものを選択するようになります。しかしながら、「全体」を見据えて、最も適切な判断をするという過程においても、依然として「善」「悪」という価値判断は残っています(その部分は、グリーン(相対主義的段階)を超えて含むという課題に含まれていないからです。)。
そのため、上記のような互いが「善」性に基づいて行動しているにもかかわらず衝突や戦争が起きるという限界事例にぶつかったとき、思考停止のような状態に陥る可能性があると考えています。

そこで、ティール(自律的段階)の先の意識構造を考えてみます。
ティール(自律的段階)の先の意識構造には、ターコイズ(構築自覚的段階)、さらにインディゴ(触媒的段階)が存在すると言われています。
ターコイズ(構築自覚的段階)とは、その名の通り、私たちが現前する存在(意識が把握するもの)は、全て自分たちの意識の構築物であると自覚する段階と言われています。今回の記事に関連して言えば、上記のような善悪の限界事例を目の当たりにすることで、善悪と感じた事象に対する評価も、私たちのそれぞれの意識が、それぞれに構築した人工物に過ぎないことに気づき、自覚することです。

インディゴ(触媒的段階)に至ると、価値観が人工構築物であると自覚したことがきっかけで、相対的な文脈の中で絶えず流動する不安定ともいえる、価値観そのものに立脚することを離れ、別のものに委ねるようになる、と理解しています。
その別のものが、人によって表現が異なりますが、太極拳であれば無極、私のコーチ垂水隆幸氏のいう0人称の衝動への回帰、今回の記事で私なりに表現したものであれば、大いなる円環、と考えています。

(本論から外れた余談になりますが、インテグラル理論における、精神的な知能(Spiritual Intelligence)あるいは単なる認知のラインのTier1が身体・感情(グロス・サトル)、Tier2が魂(コーザル)、Tier3以降が魂の源流である無極(0人称、円環)(目撃者、非・二元)について、主体ではなく客体として把握し認識する段階であり、これら各層における最終段階は、これらの各状態の視点を意識的に獲得し、単なる一時の状態ではなく、恒常的に自由に行き来できるようになることではないか、と最近考えています(さらに、目撃者の客体化・把握、視点獲得の段階がTier3、非・二元のそれらの獲得の段階がTier4になるのでは、と勝手に考えています。)

この辺りに関しては、門林奨さんがご自身のブログでケン・ウィルバーの大著『The Religion of Tomorrow』の翻訳作業に着手されている旨の記事があり、同書の翻訳版が刊行されるようになることを心から楽しみにしています!!!

また、最近刊行された鈴木規夫氏の『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』(日本能率協会マネジメントセンター)を読み、大変素晴らしい名著で感銘を受けました。ご自身の長年の経験と考察から紡がれる、一つ一つの言葉は深遠でありつつ、も、「もののけ姫」を題材にするなどの各所に工夫を凝らしながら、同時に優しさと軽さを併有しており、現時点における日本の成人発達理論・インテグラル理論の最高峰の書物の一つであると感じました。)

■ 成人発達理論の虚構(フィクション)

今回を含む、これまでの私の記事は全て成人発達理論(インテグラル理論)に基礎を置くものですが、多くの有識者が指摘するとおり、私も成人発達理論は虚構(フィクション)に過ぎないと考えるようになっています。

じゃあ、なぜそんなものに依拠して書くのか、とツッコミたくなると思いますが、いくつかの理由から、それでも成人発達理論は意味のあるものと考えています。

そもそも、個人でも集合体でも、意識について、一つの段階の事象として捉えられるほど単層なものではないはずです。ある出来事に接した時の状態を細かく紐解くと、同時に様々な側面・角度から複雑に感情や想いが湧き上がり、アンバー的、グリーン的、オレンジ的な要素を幾重に帯びているということが多くあります。
また、仮に同じような出来事に対峙したとしても、私たちはその前後の出来事や体験(文脈(context))によって認知の仕方が異なります。
さらに、退行など、その時の状態でも認知は異なるでしょう。

そうだとすれば、成人発達理論のような形で私たちの意識をある段階と位置付けることは不可能ですし、上記のような多層・複層的かつ流動的なものであるとすれば無意味とも言えるかもしれません。
そういった点から虚構(フィクション)という指摘は正しいと考えています。

他方、虚構(フィクション)だからといって無価値になるものでもないと考えています。
ケン・ウィルバーが指摘するとおり、成人発達理論(インテグラル理論)は地図であり、羅針盤です。その精度や解像度は大雑把すぎることがあるかもしれませんが、大雑把であるがゆえに単純化され、大きな困難を伴わずに全体像を把握できるようになります。
全体像として機能する地図によって、私たちはお互いを同じモノサシで見ることが出来るようなります。それは、自分と他者を同じ線の上に置き、自分もそうだから、という形で、それぞれに自分なりの居場所を与え、他者を深く理解できるようになります。その結果、自分と同じ存在として他者を尊重し、優しくなれると考えています。

また、地図であるからこそ、将来の成熟を見据え、今の自分を肯定できると考えています。
成熟・成長には必ず課題があり、その課題と正対することは痛みや苦しみを伴います。その痛みや苦しみを、ただ辛いものとしてではなく、成長・成熟に伴う痛みや苦しみと捉えることができれば、少し和らぐのではないでしょうか。さらに、その痛みや苦しみすら、深い喜び、学び、さらには感謝に振り替えられるかもしれません。
そうなれば、きっと今という瞬間をもっと肯定し、充実した瞬間の連続で活きることにつなげられるはずです。

■ 最後に

色々と述べさせて頂きましたが、『Humankind 希望の歴史』は、私たちのこれまでの価値観の変容を促してくれる、強い推進力をもった本です。
特に最後のpart5のノルウェーの刑務所、南アフリカの民主化の背後にあった物語、先ほど挙げたクリスマスのエピソードなどに大変感動しました。

そういった強い推進力によって価値観が変容することで、初めて性悪説的な部分と性善説的な部分を等しくテーブルに置いて眺めることができるようになるはずです。そこに至れば、その先で両者を踏まえ止揚させることも可能になるでしょうし、「善」「悪」や支配・被支配という私たちが作った枠(距離)を解消しようとする考えに至れるはずです。同書でも、そういった考えが様々な箇所で言及されています。

そして、私が同書がめちゃくちゃ鋭いなぁ、と感じているのは、私たち人類は、狩猟から農耕、農耕から現在に至るまで、その生活環境、それに適合させるための意識や価値観について、現実を直視し、何が合理的であるかを自ら判断して、選択している、ということを指摘している点です。
すなわち、この現実的かつ合理的な選択の過程には、善悪といった二元論的な価値観は介在せず、それを超えたところで、まさに川の水が高い所から低い所に流れるように、不自然な形でなく、自然に判断されているのです(今回の記事で繰り返し使用した「合理的」という表現は、この意味で用いています。)。

このような経過自体が、まさに大いなる円環の流れの一部と捉えることもでき、同書はそこを明らかにしているという点で意義深い本であると感じています。

とはいえ、私たちの日常を見れば、依然として、多くはこれまでの価値観に基づいたものに溢れています。
私で言えば、法律や契約書はその典型例です。これらは、違反した場合にペナルティー(罰則、損害賠償条項)を付けることが、実効性をもたらす有効な手段となっており、その背後には間違いなく、「管理」「不信」という発想が存在します。
特に、契約書には、不測の事態が発生した時の方策を事前に講じる趣旨で作成する要素が多分にあり、不測の事態とは、約束が履行されない形で不信が現実化した緊急事態を意味するため、やむを得ない面があるのかもしれません。
ただ、ノルウェーの刑務所のように、看守・受刑者という立場による支配・被支配といった距離(分離)を出来るだけ作らない、という思想にたって設計・運用した結果、受刑者の健全な社会復帰(再犯率の低下)という刑務所の所期の目的をより達成することができました。
法律、契約書といった社会制度も、同じく見直しをしなければならない時期が来ていると考えています。この見直しの際、それが私たちにとって、いかに現実的かつ合理的な選択であるかを示せるかがポイントになると考えています。そして、それを私たちが示していかなければならないとも考えています。

昨年、アメリカ、イギリス、フランスといった先進諸国の首脳や社会的な成功者と呼ばれる方たちが、コロナに感染したという報道がありました。環境問題も同じですが、こういった事象は、現代が、支配・被支配という階層を作出して分断する(距離・分離を作る)手法では、もはや解決できない極めて複雑な問題を、私たちに突き付けていると見ることができます。
まさに生活環境の変化に伴い、社会構造・システム、価値観の変容を、自らで判断して選択することが、リーダー・支配層を含む私たちの小さな意図(自我)から離れた所から求められていると言えるのではないでしょうか。

『Humankind 希望の歴史』のあとがきで、訳者は、同書が、人間を人間として扱わないアメリカの刑務所システムが構築されたのは、実は高名な「スタンフォード監獄実験」に由来していること、この実験はわずか3名の学者によるものだったことを明かしており、そうだとすれば、逆にほんの数人でも正しいことを訴える人がいれば、社会は大きく変わるのではないか、と述べています。
ブレグマン氏も、同書のエピローグで「クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない。」というメッセージを残しています。

これらの素晴らしいメッセージを受け取り、一人一人が心の中に思うだけでなく、その想いを行動に移していくことが大切だと考え、私なりの行動の一つとして、記事を書こうと思うに至りました。
この記事を読まれた方が、『Humankind 希望の歴史』を読んでみよう、あるいはご自身の人間観・世界観、行動の変容のささやかなきっかけ、わずかな推進力になれば、大変嬉しいです。

今回も長文になってしまいましたが、最後までお読み頂き有り難うございました。