「コモンズ思考」を発酵させる その4 姜信子『語りと祈り』と八重洋一郎『日毒』をつなぐ
姜信子『語りと祈り』を読みました。リズムがよく痛快な本です。
姜さんは、旅芸人の「語り」について調べているうちに、自分も「じょろりの旅」を実践する人になりました。
「じょろりの旅」がめぐるのは、水俣、沖縄、済州島、東北------等々です。この本の語りも、こうした所をめぐりながら、姜さんにとって縁の深い場所(そこにまつわる人、物語、詩)を結ぶ線を描き出していきます。
拙文では、姜さんが『語りと祈り』で描く地図に、石垣島の詩人・八重洋一郎さんの詩集『日毒』を割り込ませて、姜さんと八重さんの文学と生き方の探究がどのように交錯するかを探ってみたいと思います。
というのも、姜さんは、『日毒』が出た2017年の暮れに、全国紙の「今年の収穫」といった読書欄の企画で、この詩集を紹介してくだった方で、私が姜さんの著作を読むようになったのも、それがきっかけだったからです。
『語りと祈り』の中には、『日毒』は出てこないのですが、八重山諸島で姜さんが出会った、語りや歌についての大事なエピソードがたくさん入っています。
(例えば、こんな話も。1477年に与那国島に済州島からの船が流れつき、救助された3人の船員が島から島へと送られて、朝鮮に帰還できたという話は朝鮮側の文献に記録されていて、よく知られています。ところが与那国島では、この記録とは無関係に、この出来事が530年間にわたって語りつがれ、歌いつがれていたことを民俗研究者が発見しました。安渓貴子・盛口満編『聞き書き・島の生活誌5 うたいつぐ記憶 与那国・石垣島のくらし』)
『語りと祈り』の幹になっているのは、説経節の「さんせう太夫」と森鴎外の小説「山椒大夫」の関係です。
鴎外の近代小説「山椒太夫」は、それまで遊行の芸人たちがさまざまな「場」で語りついできた多様な「さんせう太夫」を殺し、近代国民国家の啓蒙の物語に書き換えてしまった。これが何を意味するかという所から、姜さんは、日本の近代国家と近代文学が奪った「声」(無数の理不尽な死者たちの声、私以外のナニモノカたちの声)に迫っていきます。
結末に近い部分で、こんなふうに語っています。
南方熊楠は、無数の鎮守の森に祀られていたカミを国家神道のヒエラルキーのもとに一元的に統合しようする「神社合祀」に反対して、捨て身の闘いを演じました。その背景の一つとして、粘菌の採集に熱心だった熊楠は、神社が複雑な生態系を維持する要となっていることを熟知していたということがあります。
鴎外による説経節殺しは、明治政府による「神社合祀」と並行する関係にあることがわかります。
それぞれの場所に生きる鳥獣虫魚草木山川と共にある人間、その風土に支えられたカミ。旅する芸人たちの語りは、こうした「場」におけるカミと人と生き物たちとのつながりを寿ぐ行為でした。場所と場所との緩やかなつながり。真菌類の菌糸のつながりのような捉えどころのない多中心的な拡がりです。
明治の近代国家は、こうした複雑なつながりを断ち切って、一つの中心を頂点とした一元的なヒエラルキーに置き換えようとしました。鴎外の「山椒太夫」は、近代国家の画策を補完する役割を果たしたことになります。
「在日」の文学者として、姜さんは、植民地の民衆を暴力的に支配した日本国と日本の近代文学の関係について、深く考えつづけてきたに違いありません。
そして、日本の近代文学の「声」は、私小説が主流になったことにも示されるように、「内に閉じた声」になっていったと、姜さんは考えます。植民地支配のもとで韓国の文学が、「闘う場を開く声としての文学」を生み出したのと対照的だと言います。
という自己規定をします。
そして、「内に閉じた日本の近代文学」と異質な文学、無数の「声」に開かれた語りのリズムをもつ文学として、『苦海浄土』をはじめとする石牟礼道子の作品を、姜さんは先達とするようになりました。
祭文語り八太夫と姜さんの「じょろりの旅」も、石牟礼道子の試みの継承なのだと言います。
たしかに、日本の近代文学の中で、石牟礼作品は特異な位置を占めています。その特異さはどういう点にあるのか、姜さんの「声」という言葉で考えてみると、わかりやすいでしょう。
石牟礼文学は、近代的な個人の「内なる声」を描くことをテーマにしてはいないことは明らかでしょう。理不尽な死や病に襲われた人々や生き物たちの「声」を聴きとり、それを品格のある言葉で語っていくことが、石牟礼作品の特質です。
石牟礼道子のこうした感性を育てたのは、何だったのでしょうか?
石牟礼さんのエッセイに、幼い道子さんが、気がふれて町の中をさまよい歩く祖母について歩いた話があります。道子さんはお婆さんの気持ちを感じとることができたんです。エッセイの中で、お婆さんが語る台詞は、夢幻能の狂女を彷彿とさせます。
石牟礼さんを育てた水俣では、鳥獣虫魚草木山川と人間が共に生き、風土のカミを祀る語りの「場」も活力を保っていたのでしょう。水俣の庶民たちにも、浄瑠璃(じょろり)を語る人が少なくなかったようです。
一つの中心を頂点にした神道のヒエラルキー化とともに、多くの地域で、風土のカミと語りの「場」を要にした多様なつながりの分断が進む中で、水俣では、石牟礼さんを育てた風土が維持されていたのです。
「じょろりの旅」を重ねる祭文語り八太夫と姜さんは、石牟礼道子の『水はみどろの宮』という作品を「じょろり」に仕立てて、語っていると言います。
そうすると、石牟礼作品のリズムは遊行の芸人の語りと同期することを体感できます。
と祭文語りは言っているそうです。
姜さんは悟ったと言います。
石牟礼さん自身、『苦海浄土』のあとがきに書いていると言います。
このように辿ってみると、「日本文学という名の百五十年の孤独」を破る声を取り戻そうとする姜さんが、石牟礼文学を継承する「じょろりの旅」を重ねるにいたった脈絡を納得できるでしょう。
ここで、『日毒』の八重洋一郎さんを割り込ませてみます。
石牟礼さん自身が語っているように、彼女を育てた水俣の風土は、どこかで沖縄の風土につながる質をもっているようです。
八重さんに石牟礼道子について語っている文章があるかどうかわかりませんが、八重さんは谷川健一の著作(とくに和歌)を愛読し、交流もあったようです。
いうまでもなく、谷川雁をはじめとする谷川兄弟は水俣で医院を営む家で育った高学歴の子息たちで、石牟礼さんにも大きな知的な刺激を与えています。
谷川健一は、足しげく沖縄に通い、1903年(明治36年)まで、人頭税(薩摩藩による収奪)が維持されるなど、先島(宮古島、八重山)に対する理不尽な支配が続いた経緯を詳しく記録するといった、重要な仕事をしています。
『語りと祈り』で姜さんが描く地図の中でとても重要なのは、大阪の猪飼野と韓国の済州島のつながりです。
横浜で育った姜さんは、1986年に「ごく普通の在日韓国人」という文章で「朝日ジャーナルノンフィクション大賞」を受賞のあと、金時鐘の『「在日」のはざまで』に出逢うまで、猪飼野と済州島の強い結びつきを知らなかったと言います。
済州島では、1948年に「四・三事件」として知られる無辜の民衆に対する大虐殺が起きています。金時鐘は、この大混乱を辛うじて逃れて密航船で日本に渡ってきました。この事件で、島を逃れた人々の多くが大阪の猪飼野に集住するようになり、金さんもこの地域で同胞が営む零細なロウソク工場で働きました。
優秀な皇国少年として日本語で育った金さんは、日本の敗戦後、軍国日本は、朝鮮人労働者の酷使によって支えられていたことを知ってから、詩作を通じて、日本人の思考体質や物の見方を批判し解体する作業を日本語で行わなくてはなりませんでした。
金時鐘にとって、混迷から抜け出す決定的な手がかりとなったのは、小野十三郎の『詩論』だったと言います。
やはり、姜さんにとってのもう一人の重要な詩人・谺(こだま)雄二も、小野十三郎の『詩論』を読んで、「歌う」ことを生きること闘うことそのものにしていった、と言います。
小野十三郎の名前が出てきて思い出したのですが、八重洋一郎は、詩集『夕方村』で小野十三郎賞を受賞しています。
八重さんが小野十三郎の影響を受けているかどうかはわかりませんが、『夕方村』には小野十三郎の精神に通じるものがあるのは明らかだと思えます。この詩集は「夕方」という時間が喚起する心象をテーマにしていますが、短歌の抒情的な主題となってきた「夕暮れ」の美意識とは異質な「死」と「他界」につながる「夕方」をもっぱら描いています。
金時鐘が日本語と日本的抒情を解体し再創造しようとしたのとは違った形で、八重洋一郎の詩作も激しい苦闘を通じてその方法を見出しています。彼が学んだヨーロッパ近代の哲学・文学と故郷の八重山の人々の悲哀と苦難にみちた歴史の間の大きな隔たりをどう埋めればいいのか、その道筋を見つけるまでに長い模索がありました。八重さんのそうした詩的探究について理解を深めるために、小野十三郎の『詩論』が重要なヒントを与えてくれそうです。
『日毒』では、琉球弧の島々で自衛隊ミサイル基地建設を進める自発的対米従属国家・日本に対して、八重洋一郎は住民の視点から痛烈な批判を行っています。
「日毒」という言葉は「日本の毒」という意味で、琉球処分(1879年)の時代に八重山の知識人の間で、この言葉が密かに使われました。八重さんは、高祖父、曽祖父が残した文書の中にこの言葉を見つけました。
米国の軍人が故郷の地図を軍靴で踏みつけている写真を見て、詩人が怒りを爆発させて書いた「山桜」という詩には、「日毒ここに極まれり」という表現が出てきます。
『日毒』の「あとがき」には、「日毒」という言葉はとっくに死語になっているべきなのに、島々で起きている現実は、この言葉のリアリティをますます高めている。「いかにしてこの言葉を昇天させるか、我々の重い課題であろう。そしてそれは必ず果たされなければならない」と書いてあります。
この課題を果たすには、当然ながら、ヤマト側の人々の責任の自覚と事態を根本的に変える取り組みが不可欠です。まず、八重さんの問いかけに対して、ヤマト側の人々のしっかりとした応答があって然るべきでしょう。
ところが、老思想史家・鹿野政直さん(著書『沖縄の淵---伊波普猷とその時代』の岩波現代文庫版に「付 歴史との邂逅 「日毒」という言葉」という部分を加えている)以外には、ヤマト側の知識人からのしっかりとした応答はないようです。
姜さんは、上に書いたように全国紙で『日毒』を紹介してくださった方なので、『語りと祈り』を『日毒』へのヤマト側からの一つの応答として読むことができるかもしれません。
ヤマト側といっても、姜さんの場合、ヤマトの「まつろわぬ民」からの応答ですが。
『語りと祈り』に描かれている金時鐘や谺雄二、石牟礼道子、姜信子の苦闘と探究と八重洋一郎の『日毒』を重ねてみると、日本列島を超えて、東アジアの深い悲哀と苦悩を抱えた諸々の場所での文学的探究が、たがいに触発しあう関係とその深まりが見えてきます。
また、『日毒』において、沖縄を米軍への捧げ物として、自分たちは安全な所に身を置こうとする日本国民の反倫理性を、八重さんは強く批判しています。そうした批判に応えるには、まず、異質な他者と対等に接するモラルを育めるコミュニティの原型を、近代の日本社会の中に見つけ出す必要があります。
その一つの手がかりが、『語りと祈り』の中で引用されている石牟礼さんと姜さんの対話にあります。
石牟礼さんは父親について、大事なエピソードを随筆の中に記しています。前に触れたように、石牟礼道子の祖母は気がふれて、町の中を彷徨い歩く人でしたが、天皇が水俣の町にやってくることになって、警察は彷徨する老人を一時的に施設に収容しようとしました。
そういう意図で、巡査が石牟礼家に訪ねてきます。その話を聞いて、父親は激怒して、「婆さまを連れて行くなら、俺を伐ってから行け」と言って立ちふさがります。巡査は困って、「その日は婆さまを外に出さないようにしてください」と言って帰っていったそうです。
他の人たちが見下していた朝鮮の人たちと同等のつきあいをしようとした父親は、他方で、警察官の不条理な要請を敢然として拒むことができる人だったわけです。
両親のこうしたモラルは、風土のカミや語りの場が活力を持っていた当時の水俣のコミュニティのあり方とつながっているのではないかと思えます。
『日毒』に応答するには、日本の近代社会の中で、どのような条件の所で、異質な他者と同等に接するモラルが生きていたのか、探究を重ねていくことが重要でしょう。