鷗外さんの「小倉日記」④引っ越し
《二十一日。 大雨。 山根武亮來り訪ふ。麦酒を酌みて時事を談ず。
二十二日。始て晴る。
二十三日。山根を訪ひて高嶋北海の画を看る。
二十四日。午後大雨。鍛冶町の宅に移る。》
21日 止宿先の達見旅館に第12師団参謀長の山根武亮が訪ねてきて、ビールを飲みながら時事を語り合ったとあります。
山根武亮は山口県出身の第12師団参謀長。陸軍士官学校を卒業、のちにドイツ駐在、ドイツ・オーストリア留学していますからドイツ留学時代の鷗外さんの日記「独逸日記」にも登場、親交がありました。
この時期、時事とはやはり目の前に迫っていたロシアとの戦争のことでしょうね。
鷗外さんの母・峰子さんへの手紙に「実に危急存亡の秋なり、(中略)決して気らくに過ごすべき時には無之候」と書いています。
2人ともドイツに住んだことがありますから、やはり飲み物はビールです。
鷗外さんとビールの縁は深く、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。
『独逸日記』では、鴎外さんが醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、ミュンヘン大学で、ビールを飲むとしきりに小便がしたくなるのはどういうわけかという研究で、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが書かれています。
明治時代から日本でもビールの製造が始まりましたが、当時のビールは非常に高級品でした。
かけそば、かけうどんが5厘∼1銭だった時代にビールの大瓶1本は16銭で、今の金額に換算すると約6,000円もしました。
栓も今のように王冠ではなく、コルク栓です。
現代でいうと高級なワインくらいでしょうか。庶民には簡単に手が出せませんね。よって、当時は軍人や実業家などお金持ちの飲み物となっていました。
北九州市門司区でビール製造が始まったのが大正ですから、鷗外さんたちが飲んだのは、サクラビールではありません。
高嶋北海とは、やはり山口県萩市出身の日本画家・地形学者で、フランスでも高い評価を得ていました。
24日、いよいよ鍛冶町の貸家に入居します。