鷗外さんの「小倉日記」⑥小倉生活始まる
≪六月二十五日。日曜に丁る。 器什を買ふ。
二十六日。始て小倉軍醫學會に臨む。
二十七日。 川俣監督監來り訪ふ。
二十八日。婢春を雇ふ。肥後國比那古の産なり。吉村氏。≫
6月25日の日曜日、小倉・鍛冶町の貸家に入居した鷗外さんは、まず生活に必要な食器や蚊帳などを買い求めました。
デパートは大正になって九州で2番目のデパート「兵庫屋」が鳥町に開店するまでありませんから、師団の部下が市内のお店で求めたのでしょうか。
小倉はもともと城下町ですから、商業は発達していました。
細川忠興による城下町の繫栄策で、多くの商人が各地から集まります。
小笠原氏が播磨・明石から移封された時も、多くの商人を伴っていたようです。
明治初期、小倉の主要道路は筑前口から小倉に入って室町⇒常盤橋⇒京町⇒鳥町⇒紺屋町⇒中津口となっていましたので、京町や鳥町がにぎわっていました。
魚町はまだ〃裏通り〃だったようです。
魚町が商店街らしくなるのは、これより後で、市制が敷かれた明治33年頃からです。
明治初期、にぎわっていたのは京町、鳥町です。
明治になって藩政時代の街並みを思い出して書いた「龍吟成夢」には、魚町、鳥町について次のようになっています。
「魚町 此町ハ魚問屋・魚店・料理屋等ナリ 神治という油屋アリ」
「鳥町 応成ト云フ画師アリ京都ヨリ来リシ
麹屋アリ、 蜂谷加六ト云フ 俳諧ノ宗匠ナリ、町惣年寄ナリ
小鼓ノ師匠二筆屋七郎ト云フアリ、 小児ノ手習師匠ナリ
酒造家木屋藤右衛門ト云フアリ、町惣年寄ナリ
八百屋店油屋百治ト云アリ、天神ロトモ云フ
昔時天神島ニ富アリシ時天神ロト云フゾンシニテアリシ由
油屋/右横隣リニ
八百屋店津田屋七三郎ト云フアリ、豆腐・八百屋物御用聞ナリ、
豆腐ハ絹ゴシナリ
油屋ノ前ニ
多葉粉屋某アリ、薩摩ノ国分、日田/日ノ隈、其外諸国ノ名葉ヲ切
手ヲ入レ商フ
鳥町/末ニ六郡ノ郡屋アリ
其稀二弓師高浜貫一郎ト云フアリ、遠的ヲ射ル先生ナリ 」
※応成というのは小倉の町絵師・村田応成のことで、「豊国名所」を描きました。
「豊国名所」は、幕末期の小倉城下の様子や領内の名所、風俗を描いたものです。応成の作品には、小倉北区長浜・貴船神社の地獄極楽図、同区妙見町・御祖神社の奉納絵馬などがあります。
鳥町には絵師や俳諧の宗匠、小鼓ノ師匠などのほか酒屋や煙草屋などいろんな職業の人が住んでいたことが記されています。
京町は小倉駅でおりた人たちは室町から常盤橋を渡り、京町に入ったので大いに賑わいました。
翌26日は軍医さんの会合に出席、師団には1大隊2人として軍医は約16人くらいいたかもしれませんから「軍医学会」とよんでいたのでしょうか。
28日に熊本県・日奈久生まれの婢(はしため=お手伝いさん)、吉村春さんを雇いました。