鷗外さんの「小倉日記」⑫鍛冶町の住まい
七月三日。朝小倉を發す。
7月に入ると、軍医部長のお仕事の一つである徴兵検査場や連隊、衛戍病院の視察に出かけ第12師団管内の各地を巡るようになります。
小倉に赴任後、鷗外さんは鍛冶町の借家を紹介され、見に行きました。
その家を見て小倉三部作「鶏」の中で、石田少佐参謀が「生垣で囲んだ、相応な屋敷である」と気に入っています。
(鶏では)師団司令部少佐参謀が自らの社会的地位・経済力とこの鍛冶町の屋敷は釣り合いが取れていると思ったのです。
この屋敷は明治中頃、北九州周辺に多く建てられた土間を除く床上部分を田の字型に6室構成とする「整形六間取り」の町屋で、建てられたのは明治30~31年とされています。
昭和49年、屋敷の一部を北九州市文化財・史跡とし、昭和56年2月、所有者の宇佐美家から買収、57年3月一般開放、その後、隣接地を買収、庭園を整備しました。
この鍛冶町旧居一帯は小倉藩士の武家町であり、藩政時代、島村、丹村氏の住居でしたが、小倉戦争で武家町が焼失し、その後は桑が植えられていたようです。
明治23年に宇佐美房輝氏が買い、明治29年に地目が畑だったところを宅地にかえました。
この辺のことは北九州鷗外記念会元会長の出口さんの論文が詳しいです。
現在の鍛冶町の鷗外旧居は、691.65平方メートルですが、鷗外さんが見に行った家は、1050.31平方メートルあり、馬丁(別当)の起居する場所や厩もあり、かなり広々としていて高級軍人たる鷗外さんが住むにふさわしい体面の保てる立派な屋敷でした。
白い百日紅、夾竹桃は当時のまま、赤い百日紅はのちに植えられました。沙羅の木は鷗外さんの詩の題名に因んで植えられたものです。沙羅の木は夏椿ともいわれ、お釈迦様が亡くなった時咲いていたという沙羅双樹とは別物です。
≪(原文)薄井という爺さんは夫婦で西隣に住んでいる。遅く出来た息子が豊津の中学に入れてある。この家を人に貸して、暮しを立てて倅の学資を出さねばならないということである。≫
※1882年(明治15年)8月、旧制豊津中学の小倉分校を「小倉中学校(第一次)」と改称。小倉中学(第一次)は1887年(明治20年)に廃止。その後、小倉市民の20年余にわたる熱心な復活運動を経て、1908年(明治41年)、福岡県立小倉中学校として再興された。なお、現在の小倉高校では、明治41年を開校の年としています。
薄井夫婦の息子は、その当時小倉に中学がなかったので、豊津中学に入っていました。
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