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鷗外さんの小倉日記㉞即非、ゲンノショウコ

(九月)
二十二日。夜來大風、曉に至りて雨霽る。偕行社に徃きて、下士卒考試を視る。井上中将の爲めに機動演習訓示文を艸す。夜渡台の軍醫二人を三樹亭に餞す。
二十三日。秋季皇霊祭の日なり。海老納次郎書を寄せて、我に豊後國志一部を頒たんことを約す。
客ありて僧即非の自蹟を談ず。

二十四日。微(すこ)しく暑蒸す。 霎雨霽る荐(しき)りに至る。

22日。昨夜から大風がひどかったが、朝方になって雨は上がった。
偕行社に出向き、下士卒考試を視察。
下士卒考試とは下士官への任官試験で、下士卒とは下士官と兵を指す言葉です。
下士官は、軍人の階級の一種で、士官と兵の間の地位にある下級幹部。旧日本陸軍では曹長、軍曹、伍長、旧日本海軍では上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹などが下士官に相当します。自衛隊では陸曹、海曹、空曹がこれに相当します。
下士官から職業軍人となります。
井上中将が機動演習で訓示することになっているので、その文案を書いた。
機動演習は軍にとって重要な訓練で、その記録が残っています。

第9師団の機動演習記事(参考)

夜には台湾に渡る二人の軍医を三樹亭に招き送別会を開いた。
誰が台湾に行くかは書いていません。
23日。秋季皇霊祭。毎年、天皇が皇霊殿で歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る祭祀。かつての祭日の一つで、現在の「秋分の日」です。
海老納次郎から、「豊後国志」1部を分けてくれるとの書状が届いた。『豊後国志』は、豊後岡藩(竹田市)の儒者で医師の唐橋君山の遺著を伊藤鏡河、田能村竹田らが編纂し、享和3(1803)年に完成した豊後国の地理・歴史・風俗・産物などを簡明な漢文で記載した江戸時代の地誌。享和4年に幕府に献上された。

豊後国志

鷗外さんは、九州の歴史、地理などに興味を持ち、土地の識者の話を聞いたり伝承を調べていますが、この豊後国志も読みたかったんでしょう。
海老納は大分県竹田市に多いといわれる苗字ですから、海老納次郎は竹田在住か出身の方でしょうか。
来客があり、小倉の古刹、広寿山福聚禅寺の開基、即非の自蹟について語った。自蹟とは事蹟の事。

即非如一

即非とは即非如一(そくひにょいつ)。中国福建省の人で、黄檗宗の開祖・隠元隆琦(1592~1673)を追って来日。長崎・崇福寺、京都・萬福寺に住し、1665(寛文5)年、小倉・広寿山福聚寺(黄檗宗)を創建した。ここに3年間住したのち、1668(寛文8)年に長崎で没している。
広寿山福聚寺は、小笠原小倉藩初代藩主の小笠原忠真が菩提寺として創建。開山は即非如一禅師。寺伝によると、1664(寛文4)年に小笠原忠真は後室の永貞院とともに宇治・萬福寺から長崎へ帰る途中の即非禅師に面会、人柄にひかれた忠真は小倉に黄檗宗寺院を建立してくれるよう3か月がかりで懇願した。即非禅師はその懇請を容れ、翌5年に足立山ろくに広寿山福聚寺を建立、即非禅師が開山となった。忠真は2年後の1667(寛文7)年に没し、境内に埋葬された。法号「殿徳叟紹勲大居士」は即非の命名。1679(延宝7)年、2代藩主小笠原忠雄により寺地が現在地に改められ、七堂伽藍や塔頭25坊を有する一大法窟が完成した。

広寿山福聚寺


即非の師、隠元隆琦(1592~1673)は江戸前期に明から渡来した僧。福建省の人。日本の黄檗宗の開祖。1661(寛文元)年、宇治に黄檗山萬福寺を開創。書もよくし、黄檗三筆の一。インゲンマメを伝えたともいわれます。
24日。いささか蒸し暑い。小雨がしきりに降った。

二十五日。午前六時二十五分小倉を發す。所謂定期巡閲の途に上れるなり。折尾に至る比雨ふる。午前福岡に至りて、又松嶋に投ず。兵舎を視る。

25日。午前6時25分、小倉を出発。定期巡閲の途に就いた。
折尾(八幡西区)に到る頃、雨になった。午前中に福岡に到着、以前宿泊した「松嶋屋」に宿を取り、兵舎を視察。

博多区・出来町公園にある九州鉄道発祥地碑

偶ゝ舍の圍なる堤上に草花の開けるあり。葉は三裂す。地より長莖を抽出で、莖ごとに數蕾を着け、その相遞次して綻び開く。花は五瓣にして淡紫色、雄蕋五あり、雌蕋の尖又五分す。これを抜けば脩長なる根あり。三浦得一郎の曰く。是れ所謂現の證據といふものなり。廣嶋の民は御輿花と名く。最も九州四國に多し。毎歳秋の彼岸の節に至りて花を開く。痢を患ふるもの徃々その莖葉を併せ取り、煎じて服すと云ふ。 冬に至れば根の側に芋塊を生ず。食ふへし。此地方別に矢筈艸といふものあり。亦痢を治すと稱すと。 後書を検して、現の證據の牛兒(ふうろそう)苗たり、矢筈艸の鶏眼艸たるを知りぬ。後者矢筈の名あるは、その細葉の引きて横斷せしむべく、これを横斷するごとに、その形箭羽に似たるを以てなり。鶏眼草はしばに雜りて地上を匍(は)ふ。その莖は紅色多枝なり。

たまたま兵舎を囲っている土手に花が咲いているのを見つけた。葉は三つに裂け、地より長い茎が出て、茎ごとにいくつかのつぼみをつけて並んで咲いている。花は5弁にして薄紫色、おしべは五つ、めしべの先は五つに分かれている。この草を抜けばひょろ長い根がある。

三浦得一郎のいうには、この草がいわゆる「ゲンノショウコ」というものです。ゲンノショウコは広辞苑には、
「げんのしょうこ 【現の証拠-験の証拠】
(服用後ただちに薬効が現れるの意) フウロソウ科の多年草。 原野に自生。茎は半ば地上を這う。長さは30~80cm。葉は掌状に分裂、葉面に暗紫の斑点がある。茎・葉共に細毛がある。 夏, 5弁で白または淡紅色の小花を開き、蒴果(さくか)結ぶ。茎・葉は下痢止め・健胃に有効。 ミコシグサ。タチマチグサ。 漢名、 牛扁。 」とあり、ゲンノショウコは、ドクダミやセンブリとともに日本を代表する三大民間薬として、現代まで広く使われています。

ゲンノショウコ赤


ゲンノショウコ白


三浦得一郎(1856年=安政3年3月〈1856年4月〉~1934年=昭和9年3月)は当時第24連隊付三等軍医正。 現在の宮崎県延岡市出身。陸軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官。のちに1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命されます。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任しています。
1915年(大正4年)、第12回衆議院総選挙に出馬し、当選。第2次大隈内閣で陸軍副参政官に任命された。第14回衆議院議員総選挙でも再選されました。

三浦得一郎

三浦の言うには、この花は広島では、「神輿(みこし)花」と名付けていて、九州・四国に多い。秋の彼岸の頃に花が咲き、病の人は茎や葉を煎じて飲みます。
など、懇切丁寧にゲンノショウコやヤハズソウに関する説明を書いています。
医者同士ですから、薬草やその効能に関心が高く語り合ったようです。

陸軍歩兵第24連隊の名簿



夜大和又四郎來りて語る。篆刻家水野の年既に七十五年にして一少女と俱に陋巷に居るを聞く。又此地に宗盛年といふものあり。春秋左氏傳に精通せり。 年八十なる可しと。

その夜、一等軍医の大和又四郎が来て話すには、(以前篆刻の印を送ってもらった)水野香村は75歳になるが若い女と一緒に裏町に住んでいると聞きました。
「陋巷」とはむさくるしく見苦しい町。狭くきたない町。狭い小路。また、俗世間の意。
また、ここ福岡には、宗盛年という、春秋左氏伝に精通した人がいます。齢80になるとか。
春秋左氏伝は中国の春秋時代の記録「春秋」に左丘明という人がコメントをつけた書物。宗盛年(1824〜1904)は福岡藩士の子。修猷館に学び、経史百家読まざる所なく、特に『春秋左氏伝』を愛読し、左伝癖と称せられたという。修猷館助教、修猷館教授の後、私立学校教師を歴任。又家塾有終舎を開く。衣食を節約して書籍を購入し、蔵書は数千巻の多きに至った。
そのコレクションは九州大学の逍遥文庫に納められてます。

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