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鷗外さんの小倉日記㊴久留米・高山彦九郎Ⅰ
(九月)
二十九日。午前九時八分熊本を發す。同乗者を内藤少將及相良行正となす。相良は會て獨逸にありて相見しことあり。留學中病みて罷め歸る。今猶少佐たり。午後久留米に至る。別を二人に告げて車を下る。二人は其任地大村に返るものなり。塩屋に投じて午餐す。車を下る比より雨ふり、既にして漸く密なり。薄暮雨暫く止む。街上を逍遙す。書肆に就いて市街圖ありや否やと問ふに、無しと答ふ。新に建てたる井上傳子之碑を看る。井上氏は久留米飛白布の祖なり。
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午前9時8分。熊本を出発、同じ汽車に内藤少将と、相良行正が乗っていた。
相良はかつてドイツ留学中、会ったことがある。彼は留学中、病になり途中で帰国した。そのためか今なお、少佐にとどまっている。
午後、久留米に到着、二人に別れの挨拶をして汽車を下りた。
二人は任地、大村に帰るという。
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内藤正明少将(1846年9月 ~ 1913年7月)は当時、長崎県大村の大村第二十三旅団長。山口県出身です。
相良行正は歩兵第四十六連隊第三大隊長で歩兵少佐。
前に泊ったことのある三本松の宿屋・塩屋に投宿して昼食を取った。
汽車を下りる頃から雨になり、だんだんひどくなった。
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夕方になってしばらく雨がやんだので街なかをぶらついた。地図好きの鷗外さんは書店に行き「市街図はあるか」と尋ねたところ、ないという。
この時、寄った書店はおそらく「菊竹金文堂」でしょう。
金文堂の店主、菊竹嘉市は卸問屋兼業、定価現金販売、陳列式店舗などの新機軸を打ち出し書籍の流通に革命をもたらした事で有名。そのため久留米の人たちは中央で出版された書籍を時間差なしで手に入れることができるようになりました。また、勤続10年以上の従業員に店を持たせ独立させることで販路の拡大に成功したと言われます。小倉に金栄堂書店、門司に金山堂書店がありましたが、九州各地に金の字をつけた書店を展開しました。
ちなみに久留米市出身の歌手・藤井フミヤ(チェッカーズ)の奥様は金文堂の娘さんです。
書店をのぞいたあと、昨年、建立されたばかりの井上伝を顕彰する石碑を見物した。井上伝は久留米絣の創始者です。
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井上伝を顕彰する石碑は明治31(1898)年、久留米市両替町(現久留米市役所付近)に建てられました。
碑文には、女史がかすり織りの技法を編み出してくれたお陰で、久留米絣の出荷量が年間10万反にも及んでいることなどがこと細かに綴られています。
この石碑は、その後五穀神社の境内に移されました。
三十日。曉に向ひて雨歇み、日出づるに迨びて天半ば晴る。居る所の室、田圃を隔てゝ芝居小屋と相對す。旦より擂鼓すること東京の相撲小屋と殊なることなし。午前西嶋少將の家を訪ひ、歩兵營を視る。
30日。夜明けに近づくと雨もやみ朝日が出るにおよんで空も半ば晴れた。
自分がいる旅館の部屋は、田んぼを隔てて向こうに芝居小屋がある。朝より太鼓をたたいて客を呼び込んでいるのは東京の相撲部屋と同じだ。
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午前、西島助義少将宅を訪ね、歩兵の兵舎を視察した。
營に午餐す。歸途寺町に至り、高山正之の墓を拝す。寺門の右に石標あり。面に贈從四位高山正之君墓これよりいりてひたりにまかるへんせうゐんのうちにありと二行に刻し、背に盤之屋嚴橿屋建之と刻す。
兵営で昼食を取り、帰りに寺町で高山正之(彦九郎)の墓に参った。寺の門の右に、「贈従四位高山正之君の墓はここより入り左に曲がった遍照院のうちにある」と表に2行に刻み、裏に「盤之屋嚴橿屋これを建てる」と彫った石標がある。
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門を入れば、左に庵室あり。筑後國御井郡寺町遍照院云々と匾す。高山氏の木位を安置し、香華を供せり。老尼ありてこれを守る。庵を出てゝ墓に至る。墓は門内の中道の將に窮まらんとする處にあり。道の右に石壇を起し、上に石柱を繞らし、中央に墓石を立つ。その面は道に嚮ひて、中に松陰以白居士、左右に寛政五癸丑年六月二十七日と刻し、右側に生國上州新田郡細谷村高山彦九郎正之と二行に刻す。
門に入れば左に庵室。筑後国御井郡寺町遍照院云々とあり、高山氏の木の位牌を安置し香華を供えている。老尼がいてこれを守っている。庵を出て墓に向かう。墓は門内の道の窮まった所にあり、道の右に石段、上に石柱を巡らした中に墓石が立っている。表は道に向かいて中に松陰以白居士、左右に寛政五癸丑年六月二十七日と刻み、右に生国上州新田郡細谷村高山彦九郎正之と2行に彫ってあります。
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遍照院は真言宗大覚寺派の寺院。蒲生君平・林子平とともに寛政の三奇人と呼ばれた、勤王の思想家高山彦九郎の墓(国指定史跡)をはじめ、維新の志士たちの墓があります。1855(安政 2)年11月、吉田松陰は知人宛に高山彦九郎の事を尋ね、その回答に対し高山の事跡を知らなったことをは ずかしいことであったと記しているほど評価していました。
高山の戒名、松陰以白居士は吉田松陰の号の由来になるなど多くの幕末の志士に影響を与えた人です。
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高山彦九郎は、延享4年(1747)5月8日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号しました。日本を歴遊し勤王を説いたのちに、筑後国久留米で幕吏の追及を受け自殺しました。
京都に遊説した時に、三条大橋からはるかに御所を伏し拝み,皇室の衰微を嘆いたという逸話があることに基づいた像が三条大橋のたもとにあります。
「18歳の時、志を立てて郷里を出で、京都三条大橋上で皇居を拝し、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出、途中に祖母死去のため3年の喪に服した。
喪明けと共に、水戸、仙台、松前を回り、北陸路から京都に入った。鴨川で得た緑毛の霊亀(祥瑞の兆)を天覧に供し「我を我としろしめすかやすめらぎの、天の御声のかかるうれしさ」と詠じたのはこの時である。
寛政3年夏、初めて京から中国、九州路の旅に出た。小倉を経て中津、遠賀郡に。
その後久留米に入り、新町一丁目の万屋金兵衛方に宿泊、江戸で知り合ったという東櫛原村の森嘉善を訪ねた。
久留米滞在数日後、彦九郎は長崎から熊本に入り、同藩の薮孤山らと交遊して3ヵ月滞在、越年した。翌年2月、熊本を発して薩摩に入り、6月から日向、豊後路を巡り、日田に広瀬家を訪問した後、川を下って久留米宮ノ陣に着いた。三本松町の袋屋三郎兵衛方に泊り、森嘉善を再度訪れた。
久留米を去った彦九郎は、筑前を通り、翌5年初、再び豊前、豊後、筑後路を遊歴し、6月19日頃飄然として森嘉善宅を訪れた。心身共に疲れ、逆上気味で旅行記や人から送られた詩歌類をあわてて破り捨てる風があった。そうして、ついに同月27日、家人の目をぬすんで屠腹。そばにきた嘉善に「余が日頃、忠と思い、義と思いし事、皆不忠不義の事となれり、今にして吾が智の足らざるを知る。天、吾をせめて斯の如く狂わせしむ。天下の人に宜しく告げよ」と述べ、懐中から取り出した一紙に次の辞世があった。
朽ちはてて身は土となり墓なくも
心は国を守らんものを
まさに息絶えんとする時、京都と故郷に向って席を改め、柏手を打ち、心念じ終り、端坐して従容として死についた。嘉膳らの手で高山家の宗旨により真言宗の遍照院に葬られた。
彦九郎憤死50年後、幕末期の若い志士たちはその行動に感銘し、相ついで墓前に香華を手向けた。地元久留米の真木和泉守もまた、
新らしと人は言わねども春はただ
古き神世に立ちかへるらむ
と哀悼の歌を捧げて拝んだ。そして、遍照院墓域は新しい尊王家の聖地ともなったのである。」(高山彦九郎先生史蹟顕彰会)
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左側及背には文字の痕の殆ど全く磨滅したるあり。案ずるに墓石は始め故墓を削りて作りしならん。面及左側の文字石に入ること猶太深くして、背及左側の文字殆ど全く磨滅したるは以てこれを徴すべし。
又今の墓の在るところは恐らくは舊に殊なるならん。寺門と門傍の石標とは稍ゝ古くして、石壇は新しく、且後者の位置、標の記す所と相反せるは以てこれを徴すべし。門傍の石標は中斷し、墓下の石壇は、新しと雖、亦將に頽れんとす。壇上の餘地には、何人か栽ゑたりけん、鶏冠花盛に開けり。
この墓石の左及び背は文字の跡が磨滅しているが、考えるにこの墓石ははじめ古い墓を削って作ったものだろう。表及び左の文字は深く太いのに背及び左の文字がほとんど磨滅しているのは、そのしるしだ。
また、今墓があるところはおそらく昔と変わっていないように思える。寺の門とそばの石標は少し古いが、石段は新しくかつ石段の位置は石標に書いてあることとは反対になっているのがその証拠である。石標は途中で折れ墓の下の石段は新しいといえど、今にも崩れようとしている。石段の上には誰が植えたか知らないが、鶏冠花(鶏頭)が今や盛んに咲いていた。
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※参考 高山彦九郎記念館 高山彦九郎先生史蹟顕彰会 4トラベル
久留米市HP 善知鳥吉左の八女夜話 久留米市史
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