鷗外さんの「小倉日記」⑮直方での出来事
八日。旅店にありて日を終ふ。福博だよりといふ小冊子を求めて讀む。
九日。雨。昧爽博多を發し、汽車に上りて直方に至る。人車を倩ひて福丸に至らんと欲するに、皆病と稱して應ぜず。茶店の主人強ひて一人を拉き來りぬ。 乗りて行くこと二十町許なるとき挽夫歩を停めて溺し、予を顧みて曰く。
これより、敷町にして驛亭あり。願はくは替人を得て辞せんと。予答へず。
既にして村店に至る。挽夫車を停め、茶を喫し烟を喫す。而して替人あることなし。 予刺を懐に探りて、挽夫に與へて曰く。予は福丸に往かんが爲めに汝を倩ひき。汝中途にして辞す。予は直ちに賃銀を與ふること能はずと。此より歩して福丸に至る。吏の壮丁を郡役所に撿するを視る。 午餐後巡査をして車を雇はしめて返る。夜小倉の寓に歸臥す。
8日、博多では宿で一日過ごし、「福博だより」という小冊子を買って読んだとあります。「福博だより」は福岡日日新聞の発行した小冊子です。
翌9日、昧爽(まいそう=早朝)に博多を発して汽車で直方駅に到着、福丸(宮若市)での徴兵検査に立ち会うため、人力車に乗ろうとしたのです。
ところが、乗場にたむろしている人力車夫たちは、知らん顔をして誰一人乗せてくません。
茶店の主人が見かねて、やっと一人を連れてきてくれたのですが、二十町(2キロ強)ばかりのところで車をとめ、 一服して他の人力車に代わってくれと言いだしますが、代わりの車がいるはずもありません。
鷗外さんは困り果て、憤慨したでしょうね。
でも、仕方がないから、雨の中、田舎道を福丸まで歩きました。直方から宮若市の福丸、かなり距離があります。
師団軍医部長の名刺を渡したのですが、その重みがわからなかったのでしょうね。
帰りは、「昼食後巡査をして車雇わしめて返る」とあります。
小倉に帰ってその話をすると、車夫にとっては、この近くでは、札ビラをはずんでくれる炭鉱主が一番の上客で、規定料金しか払わない軍人など、相手にしてくれないのだと言う。
直方での人力車とのエピソードはのちに九州いや全国の実業家に影響を与えることになりますが、それは後日。
ところで、人力車はいつ頃から使われ始めたのでしょうか。
発明した人は和泉要助(直方出身)と鈴木徳次郎、高山幸助の3人で、明治3年に東京府に営業届けを出しています。
東京・日本橋付近を拠点に営業を始めましたが、初めは恥ずかしがってあまり乗る人はいませんでした。
車輪が鉄の輪からゴム輪タイヤに変わり、今までの駕籠に比べ速くて快適、道路の整備も進んだので駕籠に取って代わるようになり、明治9年には東京府で2万5000台の人力車があったと言われます。
人力車と聞くと古い世代の人に浮かぶのは「無法松」。「🎵小倉生まれで玄海育ち口も荒いが気も荒い」人力車夫の叶わぬ恋は庶民に支持され、何度も映画化されました。それだけ流行った人力車も、鉄道や自動車の発達で消えてゆき、今は観光地で見られるだけです。
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