鷗外さんの「小倉日記」⑨方眼図・衛戍病院
二十九日。夜吉田成太郎至る。小倉地圖稿を示す。
三十日。始て小倉衛成病院分院に至る。
夜になって、福岡出身で日清戦争のとき部下だった二等軍医の吉田成太郎が、作成中の小倉の地図を鷗外さんに見せに来たのでしょう。陸軍と地図は密接な関係にありますが、軍医が何に使ったのかはわかりません。
その地図は今、東大鷗外文庫に保管されています。
ちなみにその2日後の7月1日に完成しています。
鴎外さんは地図の工夫もしていて、ドイツ留学中に、「方眼図」の便利さを知り、東京の地図への応用を試みたのが、「東京方眼図」(森林太郎立案)となっていて、これも東大鷗外文庫にあるそうです。
地図を方眼に区切って表す手法は、当時の日本にあっては珍しいものだったらしいですが、東京方眼圖の完成品は販売にまでいたったとのこと。
鷗外さんは蔵書の中にたくさん地図があり、地図好きで知られていました。
鷗外さんの小説『青年』にもその方眼図が出てきます。
小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。
翌30日には「小倉衛成病院分院」を訪ねています。
「衛戍」とは、第二次世界大戦前のわが国において、陸軍の軍隊が駐屯することです。
小倉衛成病院は小倉・北方にあり、分院は三の丸にありました。
現在の国立小倉医療センターの前身です。
上の地図で見ると、病院は師団司令部の南西に隣接しています。
当初はここが衛戍病院だったのですが、第12師団の新設に伴い、北方の軍施設近くに移転となり、この病院が分院と呼ばれるようになったようです。
現在の北九州市立中央図書館前の広い広場あたりでしょうか。そして歩兵第14連隊は市立中央図書館から勝山公園、さらには小倉北区役所あたりまで含む範囲に広がっていました。
「小倉歩兵第十四連隊の趾」碑が平和のまちミュージアムの横にあります。
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