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鷗外さんの「小倉日記」⑩ 三樹亭


《七月一日。夕京町三樹亭に渡台の軍醫を餞す。吉田の地圖成る。
二日。日曜日に丁(あた)る。客多し》


7月1日、台湾に行く部下の軍医の送別会を京町の三樹亭で行いました。 ここで初めて「三樹亭」が登場します。

小倉で最初といわれる西洋料理店「三樹亭」は、目抜き通りの京町のかどに鷗外さんが小倉に赴任する前の明治30年ごろ開店していました。
「三樹亭」には町の人や軍人が押しかけなかなかの賑わいだったそうです。
鷗外さんも小倉在勤時、知人の接待や送別会などでしばしば利用しました。

三樹亭の宴会場

明治35年3月14日、第一師団軍医部長(東京)に任ぜられ、小倉を去るにあたって、同月21日、市民有志の送別会がゆかりのこの三樹亭で開かれた。
三樹亭は、そのころ少なかった豪壮な3階建ての建物で、その1階には玉突台が設けられた。これは、小倉で初めてのものであり、1ゲーム6銭だったといいます。

3階建ての「らいおん」

同じころ、洋館造りの洋食屋のはじめといわれる「勝山倶楽部」が、富野口の真浄寺裏、砂津川沿いに開店します。
主な客は、星形の刺繍をしたシャッポ、肋骨(ろっこつ)飾りの軍服にサーベルを下げ、ひげをたくわえた「ろっこつ官さん」で、兵営のあった北方(現・小倉南区)からわざわざ出かけてきました。
ろっこつ官とは、胴体前面に横向きの飾紐が複数本付いたデザインの軍服を着た軍人。 横向きの飾紐が丁度あばら骨のように見えることから「肋骨服」と呼ばれました。
まだ電灯の無いころだったので、テーブルの上にビール瓶を立てて、その上にろうそくをともしたりしていました。
髪を島田に結った白い前垂れだけの給仕人が、ビール瓶を両膝に挟んでコルク(当時のビールは王冠ではなく長いコルク栓)を、ラセンの栓抜きで一斉にポンと抜くと、髷がゆれてなかなかあでやかだったそうです。

肋骨服の乃木将軍=本文とは関係ありません

この後レストランの開店が相次ぎ、大正時代の流行語「ハイカラ」な料理、バター、ソース、カレーなどの香りと味を提供している。
牛乳も明治40年ごろ、中原と富野へへり坂(寿通から旧添田線の陸橋を渡り教育大附属小に行く途中の坂)にあった牛乳所から市内に配達されていました。
「三樹亭」は、のちにカフェー・らいおん、料亭らいおんに変わり、清張さんの芥川賞受賞祝賀会も行われました。

三樹亭、らいおんの後には、現在はパチンコ店「ときわ」

「らいおん」の跡地は、湖月堂の左隣。現在は、「ときわ」と言うパチンコ店になっています。

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