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鷗外さんの小倉日記㉟貝原益軒と袖の港

(九月)
二十六日。昧爽江藤正澄來ぬ。午前衛戍病院を視る。午後金龍寺に徃きて、貝原益軒の墓を拜す。寺門を入れば、道の左なる鐘樓の傍に、青石の新碑あり。竹田定直の撰む所の益軒碑銘及貝原常春の撰む所の夫人江崎氏碑銘を併せ刻す。 明治二十九年五月益軒の九世の孫貝原寛一の建つる所なり。碑誌の略に云く。先生姓は貝原、諱は篤信字は子誠、寛永七年庚午十一月十四日を以て筑前州福岡城内に生れ、正徳甲午八月念七日を以て家に病歿す、享年八十有五、荒津金龍寺内に葬ると。讀み畢りて進みて小門を入り、右に折れて行けば、田圃の間に貝原氏歷世の塋域あり。 中央に益軒と其夫人との二墓碑あり、石垣を繞す。並に花崗石にして大さ全く相同じ。益軒の墓は表に貝原益軒公之墓の七字を題す。側背皆文あり。磨滅して讀むべからす。 想ふに是れ彼新碑の刻する所と同じきならん。偶一老女ありて、來りて墓を拂へり。これを問へば貝原氏の族柁川氏の未亡人なり。予に告げて云ふ此塋域は今兩貝原氏と柁川氏との共に用ゐる所なりと。

9月26日。早朝、江藤正澄が訪ねてきた。
江藤は太宰府天満宮(当時は太宰府神社)などの宮司を歴任、私立(市立ではない)福岡図書館設立の中心人物の一人で、崇福寺に葬られています。
江藤正澄関係資料は九州大学付属図書館に所蔵されています

江藤正澄(九州大学付属図書館)


明治に入って経済活動が活発になり鉄道の運行や役所などで正確で共通の時間が求められるようになります。
1886(明治19)年7月13日に「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」という法令が出され、標準時(日本時間)が定められました。
それまでは基準となる時間がなかったために人々がバラバラに活動することで様々な問題が起きていました。それを改善するために標準時が導入されましたが、時刻を知らせるものがなかったために時間を守らない人が多かったようです。例えば今でもよく言われる「○○時間」とか。
それを憂いた旧秋月藩士の江藤正澄が実業家の古賀男夫と発起して、時刻を知らせることを業務とする「号砲会社」を設立したのです。
号砲(ドン)とは大砲の空砲を打ち、爆音を響かせて時刻を知らせるというダイナミックなもの。この会社の資本金150円、全額寄附金でまかないました。
福岡市HPによると、肝心の大砲は、江藤が銃砲火薬店の西村庄平に相談し、大阪砲兵工廠(こうしょう)から購入。当時の値段で100円でした。大砲は、須崎のお台場に据え、明治21年7月22日から日の出と正午の2回発砲することになりました。 

「中央区ものしり手帳 第九話 日の出と正午を知らせた号砲」より

当初は砲口を博多湾に向けていましたが、聞こえにくいとの苦情があったため、街の方に向けて発射するようにしました。
すると今度は、住民から音がうるさいと苦情が出ます。そのため、22年に西公園の山上に場所を移しました。
また、火薬に多額の費用がかかり会社の経営を圧迫したため、同年8月以降は正午1回のみとなります。
砲手は旧福岡藩士の末永巴という人物。士族で時間の正確さには信用がありました。しかし毎日となると火薬代が続かず明治23年1月中止に。
市民に「ドン」で親しまれていた号砲がなくなると、不便さや音が聞こえない寂しさから再開してほしいとの要望があり、明治25年から市が正式に譲り受け「ドン」を再開しました。
その後、昭和6年3月31日市庁舎にサイレンが設置されるまで、正午の時報「ドン」は福岡の空に鳴り響いていました。

鷗外さんは江藤と会った後、午前に城内の福岡衛戍病院を視察。午後(福岡市中央区今川の)金龍寺に行き、貝原益軒の墓を参拝しました。

貝原益軒(寛永7~正徳4年=1630~1714)は、『養生訓』などで全国的に有名な福岡藩の儒学者、博物学者です。2代藩主黒田忠之に仕えましたが訳あって浪人となり、3代藩主光之に見いだされ再び仕官しました。
『養生訓』は健康(養生)についての指南書で、益軒が83歳のときに書かれたものですが、長生きするためには体だけでなく、精神の養生も大切だと書かれています。
また同じく代表作の『大和本草(やまとほんぞう)』は、薬用植物を中心に動物や鉱物、農産物や加工品までを分類・記載した書物で、日本で初めての本格的な本草書だとされています。
益軒は若い頃に医学も勉強していました。
福岡に関連のある書物としては3代藩主・光之に命じられて黒田家の歴史をまとめた『黒田家譜』や、藩内をくまなく歩き回ってまとめた『筑前国続風土記』があります。生涯で60部270余巻の書物を残しています。

貝原益軒公 墓所・銅像


 益軒は幼い頃から大変な読書家で、神童と言われるほど頭が良かったそうです。また書物だけで勉強するのではなく、実際に現地を訪ね、自分の目で確かめ、手で触り、あるいは口にすることで確認していました。当時の学問書の多くは難しい漢文で書かれていましたが、益軒の著作は庶民にも分かりやすい平易な和文で書かれていたため、多くの人に読まれるようになったのです。益軒の事を知ったシーボルトに「日本のアリストテレス」と呼ばれました。

貝原益軒

県立修猷館高校の「修猷山脈」によると、益軒の墓碑銘を選んだ竹田定直は1662(寛文2)年、2歳の時に祖母とともに京都から筑前福岡に来て、3代藩主・黒田光之に拝謁し、15歳になって光之に仕え、儒学者・貝原益軒の弟子となって朱子学を学んだ。光之、綱政、宣政、継高の4君に仕えて300石を賜ってその間数十冊の書物を著し、朝鮮通信使の応接を行い、貝原益軒と共に藩命による『筑前国続風土記』と『黒田家譜』の編集や校正に携わった。64歳で辞職して牛頸(大野城市)に戻り、85歳で没するまでは書物を書き、平野宮の右隣に笛塾という朱子学を教える塾を開いた。

貝原益軒夫妻の墓

また、夫人の墓碑銘を選んだ貝原常春は益軒の兄、楽軒の子です。
墓碑銘を読み終わり小さな門を入り右に折れていけば田んぼの間に貝原氏歴代の墓、中央に益軒と夫人の二つの墓碑があり、石垣を巡らせている。
益軒の妻は、貝原東軒(1652=承応元)~ 1714年2月10日=正徳3年12月26日)。女流書家であり歌人です。 生家の苗字は江崎、名は初、字は得生。
2人の墓は花崗岩でできており、同じ大きさで並んでいました。
たまたま一人の老婦人が墓掃除をしていました。尋ねると、貝原氏の一族、柁川氏の未亡人だという。いまはこの墓地は貝原、柁川両家がともに使っているようです。


夕に三浦得一郎等に招かれて、西公園鍾美亭に飲む。袖の港は弓の如く前に横はり、福岡博多の人家の紅瓦白堊は珠數の如く波際に浮べり。夜に至りては身邊皆蟲聲なり。唯ゝ偶ゝ陰暦の二十一日に當りて、月出づること遲きを憾むのみ。

夕方、三浦得一郎らに招かれて、西公園鍾美亭に飲む。かつて平清盛が造ったという袖の港は弓の如く前に横たわり、福岡博多の人家の紅瓦白亜は数珠の如く波際に浮かんでいる。夜が更けて身の周りは虫の声ばかり。唯々偶々陰暦の21日に当りて、月の出が遅いことを残念に思うばかりだ。

月おそしおそしとかこつこゝろをや
なくさめんとて虫のなくらん
一揮して妓を去らしめて虫の聲
鷗外さんの俳句。
月の出が遅い遅いと嘆く心を慰めるかのように虫が鳴いている。
手を一振り合図して芸妓を去らせて、袖の港の美しい眺めの中、聞こえてくる虫の声に耳を澄ましています。

桜が満開の西公園
西公園

西公園は万葉の時代に荒津山と呼ばれた福岡市を代表する景勝の地。
黒田如水・長政を祀った光雲神社や母里太兵衛と幕末の志士である平野国臣の銅像、加藤司書の歌碑、徳富蘇峰の詩碑、万葉歌碑などがあり、展望台からは、東に福岡市街地、北に博多湾や海の中道、志賀島の佳景が一望できます。2500本余の桜が植栽され、春には花見客で賑わいます。

参考  福岡市中央区ものしり手帳  
     九州大学付属図書館江藤正澄関係資料 
     ふるほん住吉さんのブログ
     詩をよむ日々
     福岡市西公園HP
     金龍寺HP

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