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生き物の知的な行動はどう生まれるか? に迫る本

知的と思えるような行動をとるのは人間だけではありません。たったひとつの細胞からなる粘菌だって、迷路の最短経路を探し出したりします。こういった行動も、粘菌が置かれた環境のなかで生き抜くための、いわば原始的な知性のようなものだと考えられます。
中垣俊之著、ヤマケイ文庫『考える粘菌 生物の知の根源を探る』では、そのような生物の知性の出自に迫っていきます(※本記事は同書籍の「はじめに」からの抜粋です)。

生きものの知性を探る旅

この本は、「生きものが知的であるとは一体どういうことだろうか?」という疑問について、粘菌という単細胞生物の振る舞いを見ながら、なるべく根源的なところを探した研究を紹介しています。「知的」といってるのに、「単細胞生物」を対象としていることが、すでに問題提起的です。「単細胞」という言葉にはあまり賢くないという意味がありますが、どうもそうとは言い切れないようです。このことが、この本の出発点になっています。

知的というと、まずはヒトの能力を思うのがふつうです。難しい試験問題が解けたり、味わい深い小説が書けたり、巷の知能テストで高いスコアをとったりする能力を思い浮かべるのではないでしょうか。そのような能力が積み重なった先に、宇宙探査やスマートフォンなどの技術があり、また国を統べる法体系や国際連合のような国際政治があります。まさにヒトの知性の象徴でしょう。 

一方で、そのような高度な技術をささえる工業製品の製造の現場では、日々立ちはだかる問題を克服したり回避したりしていますし、また法律の立案や政治交渉の現場でも、関係者間の利益相反やジレンマを調整するべくよりよい解決案を模索していることでしょう。そこで発揮されるヒトの能力とは、「遭遇する状況がどんなにややこしくて困難であっても、未来に向かって生き抜いていけそうな行動がとれる」と言ってよいでしょう。

ひとまず、こんなふうに知性を捉えてみると、ヒト以外の生物がそれぞれの置かれた状況、つまり野外の生息環境で、どのような行動をとるかを調べることで、その知的レベルを推し量れることになります。実際、野外環境は多くの要因が空間的にも時間的にも変動する非常にややこしい状況といえます。生物は、そのような状況で生き抜くための行動をとらなくてはいけません。

この考えをあらゆる生物に適用していくと、いちばんシンプルなものとして単細胞生物の行動に行き着きます。驚くべきことに、一〇〇年ほど前の時代を代表する生物学者たちは、すでに単細胞生物の行動に特段の関心を持っていました。水中を泳ぐゾウリムシや水底を這い回るアメーバだって、同じ刺激に対していつも同じ反応を返すだけの単純な機械では決してないことを発見していました。単細胞生物の巧みな行動は、すでに見つかっていたのです。

この本では、この一〇〇年前の研究に再び焦点をあてます。しばらく忘れ去られてきたこの古典的な研究を引き継いで、現在の科学的概念や手法によって再検討し、その先を目指します。

粘菌の驚くべき知性

私たちは原生生物の一種である粘菌という巨大なアメーバに注目しました。粘菌の巨大アメーバは、肉眼でも見える大きさですので、野外での生息状況を現場で観察することがきます。これは大きな利点です。また実験室で飼育しているときも、巨大アメーバの体の形や質感、動き、匂い、色などが目に見えるので、健康状態や日々の生活状況に実感をもって触れることができます。たとえば、ペットの猫に毎日接しているとだんだん猫のことが感覚としてわかってくるのと同じです。このことも大きな利点です。

寒天ゲルの上を這う粘菌。種名はモジホコリ。

もう一つ粘菌にこだわる大事な利点があります。私たちは、粘菌の巧みな行動の仕組みを、細胞運動を簡略化して表したモデル方程式から読み解いていく方法論を採用しています。肉眼ではネバネバした物質の塊のようにしか見えない巨大アメーバの体は、物質の運動法則に基づいたモデル方程式で記述しやすいのです。方程式でモデル化することととても相性がよいといえます。

粘菌は、ややこしい状況におかれても、その場のややこしさに応じた上手な行動をとることができます。驚くなかれ、迷路の最短経路を探し出したりしますし、ヒトの社会がつくりあげた公共交通網ですら、スケールは異なるもののそっくりの形のネットワークをつくりあげてしまうのです。

2つの餌場を最短ルートで結ぶ粘菌

二〇〇〇年九月、私たちは英国の科学雑誌「ネイチャー」において「アメーバ状生物である粘菌が迷路を最短ルートで解く能力がある」という趣旨の論文を発表しました。それまで脳や神経系がない生きものでは、高度な情報処理能力はないと思われてきました。粘菌は、原形質と呼ばれる物質の固まりです。論文の最後では、それが「原始的な知性」を持つと書きました。

喜ばしい(?)ことに、私たちのこのような研究に対し、二〇〇八年度イグ・ノーベル賞が与えられました。認知科学賞です。認知科学とは、概して人間や高等動物を対象にした学問分野で、かなり心理学に近いものです。私たちの受賞理由は、「単細胞生物である粘菌が迷路やその他のパズルを解く能力があることを証明したこと」です。単細胞生物の研究に「認知科学賞」を与えたところが、実にニクいではありませんか。イグ・ノーベル賞の精神を見た気がします。

 関東圏のJR 路線ネットワーク(左)と粘菌のネットワー ク(右)。高木清二博士による

二〇一〇年には、同じ粘菌が、関東圏の鉄道網と同様な機能性をもった輸送ネットワークを構築する能力があることを米国の科学雑誌「サイエンス」に発表しました。ここでいう機能性とは、両立し難い三つの性質を上手にバランスさせる多目的な最適性のことです。その三つとは、ネットワークの全長をなるべく短くするという経済性、どこかの路線がたまたま不通になっても迂回路があるという事故耐性、どの街もなるべく短距離でつながるという効率性であり、経済性はその他二つと相反します。

このようなすぐれた行動が、単細胞の粘菌からどのようにして生み出されるのでしょうか? それに対する答えとして、迷路解きも鉄道網設計も、粘菌の運動を簡略化して表したモデル方程式で再現できることを発見しました。このモデル方程式は、粘菌の情報処理の手順を再現しており、粘菌の問題解決方法を解明したことになります。そんなこともあってなのか、二〇一〇年に二度目のイグノーベル賞を頂戴いたしました。生物学をはじめ数学や物理学をそれぞれ専門とする共同研究者と一緒に取り組んできたことが異国の人々にも認められて随分励まされました。

多様性が生み出される仕組み

これらの研究と並行して、粘菌のほかの面も探索しました。同じ刺激を規則的なタイミングで与えると、粘菌は次に来るタイミングを見事に予測することもわかりました。ところが、このときに同じ条件で実験していても、個体によって反応がかなり違うことを知りました。きっちりとタイミングを当てられる個体もいれば、早すぎたり遅すぎたり、または我関せずとばかりに特段の反応を見せない個体もいました。

よくよく見直してみると、迷路解きや鉄道網設計でも、個体によって結果はかなり違っていました。このような違いは、これまでは単なるばらつき、特に平均的な反応からのばらつきとみなされがちでした。しかしながら、素直に見れば、ばらつきとして片付けるにはしのびないもので、むしろ個性ともみなせそうなものだったのです。

そんな議論を続ける中で、同じ条件でも、量的な反応の差ではなく質的な差を見せる例が見つかりました。粘菌の行手に薄めの毒を置いておくと、個体によって逃げるかと思えば、逆に乗り越えたりするのです。このような行動の違いにこだわっていくうちに、単細胞の粘菌だって、同じ刺激に対してただ単に同じ反応を繰り返すだけの決まり切った機械では決してないことがはっきりとわかりました。バラエティに富んだ行動のオプションが潜んでいたのです。

そして、その仕組みをやはり単純化したモデル方程式で書き下してみると、多様なオプションが自然と生み出される仕掛けも見えてきました。生きものらしい行動の仕組みを、細胞運動を記述するモデル方程式で説明することが、ひとまずの段階ですができてきたのです。ただし、まだまだ改良の余地があるモデル方程式です。

私たちは、粘菌の行動が「primitive ではあるがintelligence の芽生えではないか」と主張してきました。行動を発見しただけでなく、どのようにして解いているかという仕組みも提案していることを強調したいと思います。

以上の粘菌の実験は、粘菌の野外生息環境で起こりうるであろう状況を想像して考案されました。野外で起こる非常に複雑な状況を想定しながら、その中のごく一部分のある複雑さに注目して、その複雑さの本質をなるべく単純化して実験室で再現しました。注目する複雑さの本質を抽出しようというわけです。

ヒトにも受け継がれる原生生物の巧みな行動

やがて粘菌の賢さを探る研究は、アメーバやゾウリムシ、ミドリムシといった原生生物へと拡張され、いまでは原生生物一般へと広がろうとしています。近年では、原生生物のような単細胞生物の巧みな行動を包括的に概念化しようとする試みも行われています。そして、このような細胞行動の巧みさは、原生生物だけに孤立して存在するのではなく、じつは我々ヒトのような多細胞生物へと引き継がれていることも見直されています。

この本を読むと原生生物の予想以上の出来のよさを知ることになるでしょう。その仕組みにも具体的なイメージが持てるようになるでしょう。ただ、それらを知ってどう思うか、またそれらが一体何を意味すると思うかは、人それぞれだと思います。「生きものが知的であるとは一体どういうことだろうか?」という本書のセントラル・クエスチョンは、古代文明の時代から問い直し続けられてきたオープン・クエスチョンなのです。原生生物の思いも掛けない高い能力を仰ぎ見ることは、これまでの生命観を書き換えることにつながります。また、それに伴って人間観を大きく変えてしまう可能性すらあります。


単細胞の粘菌を通して、
生物の“知性”の根源に迫る!

内容紹介

生物が知的であるとは、どういうことでしょうか?

単細胞生物の粘菌は、脳も神経系もないにも関わらず、迷路の最短経路を探し出したり、人間社会の交通網にそっくりのネットワークを作り上げてしまいます。
「遭遇する状況がどんなにややこしくて困難であっても、未来に向かって生き抜いていけそうな行動がとれる」
知性をこんなふうに捉えてみると、単細胞の粘菌でさえも、その場のややこしさに応じた知的と思えるような行動をとるのです。

このようなすぐれた行動が、単細胞の粘菌からどのように生み出されるのか。私たち多細胞生物にもつながる「知的なるものの原型」を粘菌に探ります。

※本書は二〇一〇年五月に発刊されたPHP サイエンス・ワールド新書『粘菌 その驚くべき知性』を加筆修正のうえ、文庫化したものです。

著者紹介

中垣 俊之(なかがき・としゆき)
1963年愛知県生まれ。北海道大学電子科学研究所教授。
粘菌をはじめ、単細胞生物の知性を研究する。
北海道大学薬学研究科修士課程修了後、製薬企業勤務を経て、名古屋大学人間情報学研究科博士課程修了。
理化学研究所基礎科学特別研究員、北海道大学電子科学研究所准教授、公立はこだて未来大学システム情報科学部教授を経て2013年より現職。
2017〜2020年北海道大学電子科学研究所所長。
2008年、2010年にイグ・ノーベル賞を受賞。著書に『粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う』(文春新書)、『かしこい単細胞 粘菌 』( たくさんのふしぎ傑作集) など。


目次

第1章 単細胞の情報処理

細胞と核とゲノム
細胞のモノとココロ?
単細胞の動物行動学
生きものの情報処理
意図的行動の特質
細胞は生命活動の原点
ヒトが単細胞になるとき

第2章 粘菌とはどんな生きもの?

ライフサイクル
収縮リズム
味覚
嗅覚・視覚・触覚ほか
発育をうながす環境
モデル生物としての粘菌

第3章 粘菌が迷路を解く

ちょっとした困惑──餌があっちとこっちに
最短経路の生理的意義
短い経路を選ぶ──迷路でも?
適応ネットワークモデル
付録──粘菌解法の数理モデル
行動の多様性
粘菌解法の生物らしさ
粘菌が解いたといってよいか?

第4章 危険度を最小にする粘菌の解法

危険度が非一様な空間での経路探索
危険度最小化経路
海水浴場のライフセーバーの問題とスネルの法則
粘菌の解法──適応ネットワークモデル再び
付録──モデルのもう少し具体的な説明
粘菌解法の応用──カーナビゲーションシステム
組み合わせ数の爆発の恐ろしさ
フィザルムソルバーの特質その1──大雑把さ
フィザルムソルバーの特質その2──渋滞への適応性
粘菌の適応ネットワーク形成のアルゴリズム

第5章 両立が難しい目的をバランスさせる粘菌の能力

シュタイナー経路
ネットワーキングのバラエティ
三つの指標
粘菌ネットの多目的最適性
粘菌の多目的最適化手法──適応モデル三たび
モデルのシミュレーション
関東圏の鉄道網を粘菌に設計させたら
地形のバリエーションを取り込む
粘菌とJRの不思議な類似性
シュタイナー問題への応用
適応ダイナミクスの共通性

第6章 時間記憶のからくり

周期的環境変動を予測することを示した実験
周期性の想起──実験その2
時間記憶能の生理的意義
時間記憶のからくり──共振
粘菌の多重周期性
一連振り子モデル
位相同期モデル
位相同期モデルのからくり
「エジプトはナイルの賜物である」

第7章 迷い、選択、個性

粘菌の逡巡行動を示す実験
ハムレットの逡巡
逡巡行動のからくり
先端部の雪だるま式発展
マッチ棒の延焼モデル
迷いとパチンコ

第8章 粘菌の知性、ヒトの知性

生物と物理
意識と無意識
高度な言語能力のなせる技
考えずに考える粘菌
知は環境の鏡
原生知能の行動力学方程式
細胞の不思議──微細藻類にみる旋回遊泳と多細胞性
多細胞生物へと受け継がれる単細胞の行動能力

あとがき
参考文献