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【1講全文公開】動物行動学の泰斗、日髙敏隆氏が最晩年に語った、動物としての「人間」とは?

人間とは、いったいどういう生き物なのか? 動物行動学者である著者が、生物としての「人間」を、容姿・言語・社会などの話題をさまざまに展開しながら、わかりやすい言葉で語った最晩年の講義が文庫になりました。

「この現代、日本も含めて世界中でいろいろなことが起こっています。よく考えてみると大昔から人間は戦争をしていて、いつになっても止まらない。でも、戦争というのをする動物は、ほかにはいないんですね。それはなぜなのか。どうしたらいいのかっていうことを、ちゃんと考えなくちゃいけないだろうと。そのためには、生物学の一端として、人間というのはどういう動物なんだということを、ちょっと考えてみる必要があるだろうというので、この講義をすることにしたわけです。」 (本文より)

ヤマケイ文庫『人間は、いちばん変な動物である~世界の見方が変わる生物学講義』の発刊を記念して、第10講「人間は集団好き?」を全文公開します。

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危険な草原へ

ホモ・ネアンデルタール人や、ホモ・サピエンスと呼ばれているわれわれ現代人の祖先は、どうも今から二十万年から三十万年前にアフリカで生まれたらしい。
われわれの近い親類、ゴリラやチンパンジーという類人猿は、みんな森に棲んでるわけです。現在のアフリカには、東側の方では森が非常に減っちゃってるんで、おもに西アフリカの方の森にいます。

アフリカの森というのは、最近はものすごく減っちゃってるらしい。これは人間が減らしたってこともあるけども、人間が現れる前には人間のせいで減ったんじゃないんで、気候が変わっていったんですね。乾燥したり寒くなったりとか、そういうことで森林が減っていったらしい。その頃に人間の祖先がアフリカに現れた。

森というのは大変いいところで、木がいっぱい生えてますから隠れるのにも非常に都合がいい。果物のなる木もいっぱいあります。ところが、森林が非常に減ってしまうと、たぶん森の人口が混んだでしょうね。混んでるというのはヘンだけども、チンパンジーはいるはゴリラはいるは、ほかにもサルがいっぱいいるっていうことで、それで人間の祖先たちは、もう森から出ちゃおうということになったらしい、どうやら。

ですから、化石は森の中では見つからなくて、むしろ東側の方の草原で見つかってる。ということは、ホモ・サピエンスの祖先というのは、どうもアフリカの草原で暮らしてたらしいんです。

今から二十万年ぐらい前のアフリカの大草原にはもう、ライオンとかハイエナとかヒョウとか、その他の怖い動物もいっぱいいたわけです。そういう中に人間の祖先が出てきた。人間の祖先ってのは、角があるわけではないし、鋭い爪があるわけではない。牙があるわけでもない。猛烈に速く走れるわけでもない。要するに、どうしようもないくらい防衛力っていうか武器がない動物だったはずなんです。それがヒョウとかライオンとかハイエナとか、そういう怖い動物がいっぱいいる中で生き延びてきたんです。

そんな怖いところで、どうして、こんな武器もなんにもない動物がなんとか生き延びてこられたんだろうということを、ぼくはある時期、非常に不思議に思ったんですね。

さまざまな動物集団

じゃあ他の動物はどういう格好になって生きているのかというと、いろんなのがいますね。数匹だけの小さい集団をつくっているのもいますね。たとえばイヌは──この頃、野良犬がいなくなっちゃったけど──野良犬っていうのはだいたい五、六匹の集団をつくってるんです。野良犬がたった一匹だけで生きてることもあるけども、本来イヌってのはだいたい数匹の群れで生きてるらしい。

イヌの祖先はオオカミです。オオカミは五、六匹の群れをつくってる。リーダーがいて、そのリーダーの指示の下に、五、六匹のオオカミたちが獲物を攻めたり逃がしたりしながら集団として関与してるんです。それで、狩ったものはみんなで食べる。
そういう動物です。

それから、十匹から二十匹というかなり大きな集団をつくってる動物もいます。ウシとかウマとかいうのが、だいたいそうですね。野牛なんかもみなそうです。それから、ニホンザルはもうちょっと大きくて、三十匹とか四十匹の集団をつくってます。

群れ全体がうまく生きてくためには、自分以外に「誰が群れの仲間なのか知らねえや」っていうわけにはいかないらしいんです。リーダーが誰だっていうことも知ってる。そういうふうにしないと、群れはめちゃくちゃになっちゃうんです。だから、だいたいの動物は、ある大きさの群れをつくるけども、それ以上大きくはならない。

群れの構成員

で、その群れの中にはどういうやつがいるかっていうと、これもまた動物によっていろいろです。ニホンザルは、オスザルがいてその中にボスがいて、ボス以外にサブボス、ボス見習いとかね、そんなふうに人間が呼んでる連中がいて、その周りにメスがいます。そして、若者というのがいて、それから子どもたちがいる。これが全部集まって、何十匹かの集団になってる。それが全部がそうではないにしても、家族のようなものになっている。

ゴリラのような動物は、これはだいたい五、六匹の集団をつくっていますが、彼らは家族ともいえるけど、なんともいえない。つまり強いオスが一匹いると、そのオスがメスを自分のところに呼んでくるわけ。そうして、そのあいだに子どもができる。

そうすると、結局そのオスゴリラと、そのメス二、三匹と、そのあいだにできた子どもと、全部が家族じゃないけど、要するにある種の家族集団をもとにした集団をつくっていて、それがゴリラの群れなんです。

ところが、ゴリラに非常に近いチンパンジーは、そういうことはやってません。オスのチンパンジーが十匹ぐらいいて、それからメスがいて。メスはオスとは違うところにいます。そのほかにまだ子どものチンパンジーがいて、それからもう大人になりかけのチンパンジーがいてという、そんなふうな具合の集団を全体がつくっていて、それで、まあせいぜい五十匹ぐらいの集団ですね。そういうのをつくってる。それ以上その集団のメンバーが増えてくると、必ず群れの中で悶着が起こって、要するに群れが分裂してしまうんです。

それから、ウシとかウマみたいな動物になると、ほとんどが家族ですね。家族といってもやっぱり母系家族。メスがいて、その娘が何匹かいます。ほとんど全部がメスです。ああいう群れのオスはどうしてるかっていうと、そのメスたちの群れの周りにいるんですかね。そういうことをしてる。

それから最初の頃に話をした、ハヌマンヤセザルとかライオン。これはオスが一匹、もしくは二、三匹いて、メスがくっついたハーレムをつくっていて、そのハーレムごとに動いている。で、そのハーレムから出てきたオスは、また別のハーレムを襲って乗っ取ってと、こんなことをやってるわけです。だから、ハーレムが単位になってるんですね。

群れの組織

じゃあ、その群れの中はどういう組織になってるかというと、これまた動物によっていろいろなんです。
たとえば、テレビや写真で鳥が大群をつくって飛んでいるのを見ることがありますよね。あの鳥の大群っていうのは、これはもう中に組織があるのやらないのやら、わからないです。とにかく集まっていると、タカとかワシとかハヤブサとかが襲ってきても、あんまりワーッといるから、どれを狙おうかと思ってるうちに、群れ全部がどっかに行っちゃうんですよ。そうして群れにいるやつは結局助かる。そういうことで、身を守るために大きな群れをつくってるんです。だから、鳥の群れの中には組織もないし、リーダーもいないんだそうです。

同じようなことをしてるのが魚ですよね。水族館へ行くと魚の群れが何百匹も集まって泳いでるのを見ることができますけど、あれもそういう意味があるわけです。魚が何百匹も集まると、一見大きな魚みたいに見える。それを食う魚は、どいつにしようと思ってるうちに、もうどうしていいかわかんなくて結局捕まえられないということもあるわけですね。

それから、アフリカにはヌーという動物がいます。これはウシの仲間ですけど、かなり大きな動物で、これが何千頭というものすごい大群をつくって移動していきます。
これはまさに大群をつくってるけれど、その中にはリーダーもいないし、群れ全体としてどこに行くとかいうことを決めているわけでもない。そういうものらしいんですね。

そういうことをやっているのは、北の方ではトナカイです。これが北アメリカのカナダの大平原の辺りで、すごい大集団をつくって季節に応じて移動しています。これも別にその群れの中に組織があるわけではないし、リーダーがいるんでもない、そういう群れらしいです。

肝心の人間の集団ていうのは、どういうものだろうか。これはどうもよくわかりませんが、アフリカで現在生きてる人たちだとか、化石だとか、そんなものをいろいろみると、これは二百人から三百人のかなり大きな集団であったらしい。それでやっぱりリーダーは一人か複数かは知らんけどいたわけです。

これだけの大集団ができるということは、それなりに頭がいいってことなんですよ。
つまり二百人三百人がそれぞれみんなお互いに知ってなきゃいけないわけですね。人間はそれができた。だからそういう大集団をつくることができた。この中にはオスもメスも、とにかく男も女もいます。

家族を含む集団

こういう大集団をつくっていると何がいいのかというと、まず敵にたいして身を守ることが非常にやりやすくなりますね。たとえば人間が一人か二人で歩いてる時にライオンが五匹出てきたら、これは食われちゃいますね。ところが百人もいたとしたら、五匹ぐらいライオンが出てきたって、みんなが石を投げたりしたら、ライオンは逃げちゃいますよね。だから身を守れるわけです。

逆にいうと、人間は草っぱらにいたわけですから、果物なんてものはそう簡単にはないので、やっぱりそこにいる動物を捕まえて食べ物にするほかはない。動物は動いてますから捕まえるのは大変なことなので、捕まえる時にこっちが百人も二百人もいれば、みんなで囲んで捕まえるとか、いろんなことができる。だから人間はそういう大集団をつくったから生きていけたんだろうということが、まず第一です。これはまあ考えられますよね。

次に、この人間の集団はどういう集団であったんだろうかということですね。男と女がいるということは確かです。それから当然子どももいます。人間はかなり昔から家族をつくってましたね。だからオスがいてメスがいる。人間の子どもは、今は非常に少ないけれど、十五〜六歳ぐらいから子どもを産み始めていけば、十人ぐらい子どもがいることになります。それはひとつの家族なんです。さっき言った何百人という大集団は、そういう家族に分かれていたんだろうと。つまりひとつが十人ぐらいの家族だとすると、二百人の大集団というのは家族が二十あったということでしょう。そういうような、ほかの動物にはあんまりないようなかたちの集団をつくっている。これも人間の大きな特徴なんですね。

それがどういうふうに住んでいたかというと、たぶん全部まとまって生きてたんだろう、というふうにぼくには考えられるんです。みな一緒にいるわけですから、そういう場所がないといけない。そういう場所はたぶん、昔からよく話にあるように、大きな洞穴だったんじゃないか。大きな洞穴の中に、何百人という人間が集団で、かつ家族ごとに住んでる。そういうもんだったのではないかなあと思うわけです。

そうすると、まあ連中、男も女も、それから子どももいますから、子どもたちは自分の家族の中で育てられます。小っちゃな赤ん坊は自分の家族の中で、その母親から乳をもらって飲んでる。ちょっと大きくなると、まあその辺でいろんなものを食べて、ということになる。

集団の中で育つ

人間集団は食べ物を探さなきゃいけませんから、男たちが狩りに行きます。家族の中から大人の男がみんな出てきて、とにかく二十人とか三十人ぐらいの群れをつくって行ったんじゃないでしょうかねえ、きっと。で、まあ獲物を狩って、それをかついで洞穴の中に帰ってくる。それをみんなで分けて、女たちが、あるいはみんなで料理をして、みんなが食べる。

そうすると、自分も狩りに行ってみたいと思う子が出てくるわけですよ。「狩りに連れてって!」と自分のお父さんか、あるいは近くのおじさんに言いますね。そうすると、「お前はまだ小さいからだめだ」と言われてがっくりして、またしばらく待ってる。そのうちに「そんなに行きたきゃついてこい」って言われて、もう男の子は喜んで狩りについてったんじゃないだろうか。

狩りについて行って一緒にいたらば、獲物がばあっと飛び出してきた。そうしたらその男の子は獲物が飛び出してくるのを初めて見たから、喜んで「わあ、獲物が出たあ!」とか言って叫ぶわけですよ。そうすると周りのおじさんが、「ばかあ、そんな大きな声を出したら獲物が逃げるじゃないかあ!」と言って怒るわけですね。それでその男の子は、そうか、狩りにきた時は獲物がいたからって大さわぎしたりしたらいけないんだってことをぱっと覚えちゃう。これは学習ですね。非常に大事な学習をします。

それから後は、その獲物を大人たちがいったいどうやって捕まえるかっていうのを見て、なるほど、ああいうふうにするのか、こうやるのかってことをだんだん覚えていくわけです。それでしばらくすると、かなり立派な狩人になっていたんじゃないかなっていう気がする。

その時に大事なことは、父親ではなくて、近所のよそのおじさんが子どもに言うんです、いろんなことを。「だめだあ」とか、「うまいぞお」とか、ほとんどね。要するに家族の中だけで育っていくんじゃなくて、近所のいろんなおじさんたちの中で育っていくということを、どうも人間という動物はやってきたらしい。

一方、女たちはどうするかっていうと、女たちは狩りには行きません。これはいわゆる採集といって、あっちこっち歩いてタケノコだとか木の根っこのような食べられる植物を集めていたらしいです、どうやら。

いわゆる狩猟採集民で、英語ではこれを、狩りをする連中がハンター(hunter)で、採集をするのが「集める人」という意味のギャザーラー(gatherer)ですから、ハンター・ギャザラーズ(hunter-gatherers)といいます。

で、女たちは何十人か集まってギャザリングに行くわけですね。そうすると、女の子でも大きくなった子はやっぱりお母さんと一緒にギャザリングについて行きたいわけですね。まあそのうちに来てもいいってことになるでしょう。なったらばもう喜んでついて行くわけです。

そうしているうちに女の子たちは、タケノコみたいなもんを探す時はどこへ行ったらいいのかとかいうことを、お母さんや大人の女たちから習います。教えてくれるかどうかはわかりません。自分たちがそこへ行くんです。そういうところについて行って、それを覚える。そういうふうなかたちで学習をしていって、まもなく娘たちは非常にいいギャザラーになるのでしょう。そういうふうなことをしていたんだろうと。

人間間のコミュニケーション

さらに、人間が集団でいるっていうことの中には、もっと別の意味もありました。狩りの仕方を学ぶとか、あるいはギャザリングの方法とか場所を学ぶとかいうのは、さっきみたいな具合でいくんだけども、この大きな洞穴の中にはあちこちにいろんな家族がいるわけですね。

そこにはいろんな子どもたちもいて、いろんなおじさん、おばさんもいるわけですよ。こっちの家族には怖いおじさんがいたり、こっちの家族にはいいおばさんがいたり、中にはまた意地の悪いおじいさんのいる家族もあるだろうし、嫌なおばあさんのいる家族もあるだろうし、いろんなのがその辺にいるわけですね。

子どもたちが洞穴の中から外に出るためには、いろんな家族の間を通っていかなきゃならない。結局そういうおじさん、おばさんとか、別の家族のお兄さんお姉さんたちとどうしても接触するわけです。そこを通って行く時、こっちが「こんにちは」って言ったら、むこうもむっとしてるわけにもいかないから「こんにちは」って言うかもしれない。そしたらお互いに通じる。

「こんにちは」の仕方にしても、ほかの家族の兄さん姉さん、あるいは弟ぐらいだったら、まあ一応「やあ」でいいのかもしれないけど、偉いおじいさんだったらきちんとした「こんにちは」をしなきゃいけない。そういうふうにして、どういう人とどう付き合うかということを覚えないといけないんです。

どうも人間ってのは、そういうことを知ってないといけない動物なんじゃないでしょうか。それは、人間がそういうふうにして生まれてきた動物だからです。いろんなことを学習するには、親だけじゃなくて、まったくの他人からいろんなことを教わる。
教わるというよりも、他人がやってることをみて自分が取るんです。その取るってことが非常に大事になります。

こうやって学習をする能力はどの動物にもあるんじゃなくて、かなり頭の発達した動物にしかない。つまり観察学習という、他人がやってることを見て学習することをしてきた。そういうふうに考えると、人間が昔から大集団で暮らしていたっていうことには、非常に大事な意味があるということがわかってきます。

つまり大集団でいるということは、自分の身を守ったり、あるいはなるべく安全に狩りをするということのためには絶対に必要だった。だから生き延びてこられた。これがひとつ。
ところが、それと同時に、そういうことをしていると、そのほかの人々とどう付き合うのかということを学ぶことになるので、大集団を維持していくことができるようになったということが、もうひとつ。

多くを学ぶ

そしてもうひとつ、三番目に大事なことは、観察学習をするチャンスが多いということです。ガンの場合には、雛は自分の母親の行動しか見られないわけです。ほかのお母さんが何をしているのかは見られない。ところが人間は、さっき言ったように、いろいろな家族がいて、しかも人間というものはいろいろな変わったことをする人がいるわけですよ。そういうのを見ていて、子どもたちはそれと付き合っていくと同時に、そういう人々がやっていることを見て、そして不審に思うわけですね。

「あの人は何か変なことをやっているけども、あれは何をやってんのだろうか」とこう思う。あるいは、「あの人はあんなものを食っているけど、食べられるのかな」と思ったりする。そうしたら「ちょっとぼくも食べてみようか」ということになるので、食べてみて「あ、これはうまいや」ということになることもあると同時に、「なんだ、これはまずいな。あの人はなんでこんなものを食べているのだろうか」ということもあって、「自分としてはもう食べない」ということにもなります。ガンの雛どころではなくて、いろいろなことを学んじゃうわけです。

人間たちはまた、たぶん時間がきっとあっただろうから、いろいろなことをやってみたのでしょう。そうすると「あんなことをしている人がいるけど、あれは何になるのかな」と思って見ていると、「あれ、なんだかけっこう面白いものができてくるな」とかということもあったかもしれない。そうして実際にやってみると、「ああ、なるほど」ということになるし、あるいは、それでやってみようと思ってやってみたけれど、どうもうまくいかない。「どうしてうまくいかないのかな」と思って、そういう人々を見ていると、誰かがある時に、ぱっとうまいことやっているんですね。「あ、あれがコツなのだ」ということがわかりますね。それでコツを学んじゃう。

そうしていくと子どもが、いろんな変わった人がいる中で、いろんなことをやっているのを見ながら、いろんなことのきっかけを得ていくわけですね。それは教えてもらったもんじゃないんです。こちらが取ってくるんです。それでどんどん取りながら、いろいろなことを勉強していく。そういうことに、どうもなっているらしい。

それが結局、人間がいろんなことを学べるひとつの大事な根拠だったのだろう。そういうことを考えてみますと、人間という動物は、どうもほかの動物とは違うかたちで、大集団をつくって生きていくことが大事な動物らしいということになります。

今ぼくが持っている結論は、そういうところなんですね。だから大学などという学校をつくってみて、こういういろんな人がいて、そしていろんな友だちを見てると、いろんな変わった人がいるわけですよ。変わった人のやっていることなんてのは、何かの時に「あいつは、なんであんなアホなことをやってんだ」と思っている人もいるかもしれないけれど、「へえ、なるほど」と思うこともある。一人だけで育ったら、そういうことにはならないですよね。だからそれは、大変にありがたいことなのでしょう。

今現在われわれは、二十万年前のハンター・ギャザラーであったわれわれの祖先よりは、はるかに高級な生活をしているわけです。非常にいい生活をしているのです。
もうさまざまに便利な道具があって。だけど本当に、そのハンター・ギャザラー、二十万年前のハンター・ギャザラーと同じように本質的なことを手に入れているのだろうか? ぼくはやっぱり気になるんです。

現在の人間の社会

たとえば、これもよく新聞などに出ているし、最近の教育法改正にも書いてありますけども、とにかく子どものしつけというのはちゃんと家庭でやれということになっているんです。ところが、はたして人間の家庭というものは、そういう意味でのしつけを教えることに向いたものなんだろうか。

ハンター・ギャザラーは、そういう家庭だけでもって教育を、しつけをしてこなかったわけですね。周りのいろんな人の中からいろんなことを学ぶようにしてたわけです。それができる状況だった。

ところが今は、家族のプライバシーというものが非常に大事だとなっているもんだから、一軒一軒の家は、家族だけで住んでいます。それも、おじいさんやおばあさんは邪魔だということで、どこか別のとこにおいちゃって、夫婦と子どもだけでいる。

いわゆる核家族になっているところがたくさんある。それが、また立派にできた団地とか、鍵もちゃんとかかる、やたらに人が入って来られない、本当に家族のプライバシーがしっかりした中で育っている。それが非常に優れたことだというふうに、みなさんは思っているわけなんですが、本当にそうなんだろうかと。

たとえば、その家族の中には、お父さんが一人、お母さんが一人いるわけですね。
この一人というのは、本来ならば数百人いるうちの一人です。だから数百人の平均値をとったとすれば、その平均値から、このお父さんならお父さんは絶対にずれています。いい意味でも悪い意味でもずれています。お母さんも同じで、数百人の大人の女の中からみれば、その平均値から絶対にずれています。

家の中には、ずれた男一人と、ずれた女一人しかいないわけよ。そうすると、人間の大人の生活全体というものを、ちゃんと学ぶことが本当にできるんだろうか。絶対ずれたものになってしまうのではないかと思えるわけです。それを家庭でちゃんとやって、厳しくしつけていったら、ますますおかしなことになっちゃうかもしれない。
というようなことを、どうしてもぼくは感じるんですね。

それでも「学校に行きゃあ、いろんなやつがいるからいいじゃないか」、と思うけども、学校に行くと今度は、学校というのは教育の場ですから、同い年の子どもをそろえます。五十人、百人といるんです。けれど年が違うと、もうそれはわからない。

しかもこのごろ小学校では、ちょっとした進学校なんかになると、同い年の子どもだけども、成績によってクラスを分けますね。そうするとますます均一化しちゃうわけです。そこでずっと育つわけです。それは、ハンター・ギャザラーの時代にはなかった話だろうと。それでいいのかな、ということをどうしても感じちゃいます。

そういうことを考えてみると、家庭だけでしつけをするという、そういう文科省の方針、そして今の学校制度とか、あるいは家庭だとか、今のそういう状況というものは、何か人間本来の動物としての姿とは、どうも違ったことを相当に持っているんじゃないかという気がします。それで学校に行くと、今度はもう世の中の人とは切り分けられてますから、普通の人が何をやっているのかということはわからない。ところが実際には世の中には普通の人がいっぱいいるわけですよ。それで世の中がもっているわけです。こういうことでいいんだろうか。

人間という動物は、かなり昔から非常に変わった大集団をつくって、その中でいろんな変わった人たちと付き合いながら、いろんなものを学び取って覚えていくということをやってきた。自分の子どもであろうがなかろうが、「だめなものはだめ」と言ったり、「それはよくできた」と言って褒めたりとか、そういうふうなことを、ずっとやってきたんじゃないか。それが、世の中というものをつくってたんだろうという気がするんです。

人間はどういう動物かということを、この講義のテーマにしています。人間という動物は変わった動物で、まっすぐに立って歩いているとか、ケモノのくせに毛がないとか、おっぱいがばかに大きいとか、きれいであるとか、いろいろとヘンなことを言いましたけれど、大集団で生きるという動物なのだというのも人間という動物の特徴のひとつです。だから人間は集団になっていることが好きです。わりと好きです。

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