川崎雅子俳句の鑑賞③ 〜山のホテルの銀食器〜
俳句はモノを詠む。
「とちの木」に入り、川崎雅子からこのことを教え込まれるまで、俳句というもののなんたるかを知らぬ私は下手に叙情的で陳腐な内容の句を作っていたと思う。
あるとき〈秋霖や触れればともる机上灯〉という句が詠めて、自分なりにやっとモノを詠めたと思った。俳句とはこういうことなのかという手応えが持てた。
この拙句(〈秋霖や〉の句)は「触れる」という動詞を間に持ちつつ、「秋霖(しゅうりん、秋の長雨のこと)」と「机上灯」という二つの体言をモンタージュさせている。しかし、俳句というものは、究極的には体言だけを連ねるのでも成立してしまう文芸である。
上掲句(〈あぢさゐや〉の句)、川崎雅子の平成四年の作であるが、これがまさにそういう句である。体言と、あとはそれらを繋ぐ助詞「の」と、また逆にそれらのコントラストを際立てる装置となる切れ字の「や」。それ以外に何の要素も必要ではないのだ。
「山のホテル」と、その食堂に並べられている「銀食器」と、そしておそらくはその窓から見えている「あぢさゐ」。
この三つがただ言葉として提示されているだけで、私達は特定の風景を思い描くことができるし、この三項の組み合わせから生まれる名状しがたいケミストリーを感じとることができる。
もちろん、受け取り手の経験によって、その風景や感じはそれぞれ異なるだろう。だが、それで全く問題無い。俳句をはじめとした詩歌という文芸の仕事は、あるひとつの正解となる情景を限定的に叙述することにあるのではないのだから。
なお、たとえば「あぢさゐや山のホテルに銀食器」でもなく、あくまで「の」でつながれているということに注目したい。もし「の」が「に」になるのならば、「山のホテル」は連用修飾する言葉になる。つまり、「山のホテルに銀食器(が並ぶ)」など、その被修飾語になるところの動詞が省略されていることになるのだ。
もちろん、そのような形で省略を効かせる俳句も大いにあり得る。しかし、このように述語動詞をともなうのでは、どうしても叙述の側面が出てきてしまう。場面の限定の作用が生じる。散文的雰囲気が多少とも出てしまうのである。
それに比べ、ただ体言のみを並べ、それらの調和を全面的に信頼し、そこに全てを託すというのは、なんと簡潔で大胆なことだろうか。
いわばそれは、言葉に対するある種の放任主義である。ただし、ここで言う放任主義とは、放埒にのさばらせておく無責任さを言うのではない。対象を拘束や限界の存在しない状況に置かせ、常なるチャレンジの波にさらすこと。そうしてその彫琢と発展をひたすら祈り、見守るのを貫徹すること。このような態度こそが厳密な意味での放任主義であるはずだ。
詩歌に携わる人間は皆、多少なりともこの意味での言葉の放任主義の心を備えているし、備えることが要請される。俳句という文芸は、とりわけその要請が鋭いものである。
上掲句を詠んだときの川崎雅子は、理想的なかたちでこの放任主義を発露したのだ。