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川崎雅子俳句の鑑賞④ 〜少年とゐて夏の夜は〜

少年とゐて夏の夜は河のごと

『歩く』

川崎雅子の句によく「少年」が登場する。
掲句の他には、〈そよぎだす少年を容れ木下闇〉〈夏逝くや少年幹にふれてゆく〉〈少年のあと少女行き九月の木〉といったものがある。
また、「少年」ではないがそれに類するものとして〈涼風や耳のきれいな男の子〉という句もあるし、比喩としての登場だが〈少年のやうな島あり冬に入る〉という句もある。

掲句〈少年とゐて…〉は、第一句集『歩く』に所収。昭和54年以前の句としてまとめられた句群の中の一句である。上に引いた句のうちの〈そよぎだす…〉もこの句群の中に入っている。
おそらく、この二句で詠まれた「少年」は実在する人物なのだろう。昭和60年生まれの筆者にとってはずっと年上の「少年」になるが、彼に雅子が向けたまなざしの優しさが窺える句だ。

少年と過ごせば夏の夜は河のようである。
理屈として容易に分かりそうもないが、なぜか直感的に腑に落ちるものがある。
とは言え、その腑に落ちるというのは、雅子と同じ視点に立って共感を持てるというのとはちがう。
私はもう少しで40歳にもなる大の大人ではあるが、川崎雅子の前では、この未熟な末弟子はどちらかといえば句のなかの「少年」側にいる者だと思う。
雅子と同じ目線から、私にとっての「少年」をながめやって、「河のようだなあ」と感じることはできない。「少年」がいて、それをながめやる雅子がいて、そしてそれを「少年」の側のレーンにいる私が外からながめて、「なるほど、河のようなのか」と、言語化しようもない前論理的な論理で納得することができるというに過ぎない。

比喩の多くは、読者の理解を深めるためにある。対象をストレートに表現しようとすれば、抽象的で分かりにくかったり、十全に言い得ていないような感じが残ったりするときに用いられるもの。そういうのが比喩使用の一般的なケースであると思う。
筆者はかつて、言葉の意味や解釈を言葉で説明することの困難さについて書いたとき、その感覚を「びしょ濡れのハンカチで水滴をふきとろうとするときのように、すっきりしない感じがいつまでも残る」と書き表したことがあった。感覚に根付いた共感を読者に抱いてもらえるようにそんな比喩を用いたのだったが、こういう読者理解を目的にした比喩のあり方がごく一般的なものだと思う。

けれども、世の中には、言わば、読者の理解など度外視して発動される比喩もある。
それは、手垢にまみれた慣習的用法の埒を破って読者を驚かし、上手くいけば、表現された対象についての認識を矯正してしまったり、新たな側面を切り開いたりしてしまう。
言わずもがな、詩歌の世界で用いられるのはそんな比喩である。

夏の夜は河のごと―
掲句のこの比喩ももちろんそうである。理屈で分からないのは当然だ。「河」は、少年と過ごす夏の夜を説明するための比喩ではない。夏の夜のイメージを、「少年」という危うい存在のイメージを、ゆったりと拡げて揺蕩わせる比喩である。


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