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川崎雅子俳句の鑑賞⑤ ~秒針一進一進~

野分なか秒針一進一進つよし

『歩く』

ちょうどいま厄介な台風(10号「サンサン」)が来ているときである。「野分」の句を鑑賞したい。

掲句は昭和54年の作。
時計の針がチクタク…と時を刻む音に擬えたような「びょうしん・いっしん・いっしん」という脚韻。破調であり、あまつさえ促音と撥音のたたみかけるリフレインには、たとえるならば、前のめりの片足けんけんで跳んでいくときのような不安定さを覚える。けれども、この韻律のクセの強さが掲句のほかならぬ魅力であると私は思う。

最近川崎雅子が刊行した句日記『俳句365日』にこの句は取り上げられており、こんな自解が添えられている。

九月が近づくと野分という大風が吹き荒れることがあります。夜になっても収まらない暴風に何度も時計を見てしまいます。そんな夜の句です。

『俳句365日』

「野分」と「秒針」の秀逸な取り合わせは、暴風の夜には何度も時計を見るという雅子自身の習慣から紡ぎだされたというわけだが、私はこの自解を読んで少し意外に思った。
雅子にとって、野分の夜に目をやる時計の針は、不安な気持ちのやりどころだったのである。それを見て気を晴らしたり、頼みにする思いとともにながめやったりする対象であり、その意味での「つよし」なのだ。
一方で、そんな背景を知らなかった私は、この「つよし」は台風の荒々しい進行と共鳴するような「つよし」なのだと読み取っていた。ある種の酷さを伴った「つよし」という性質を共有する野分と秒針、そんな二物の取り合わせの句だと思っていた。

この読みにおいては、秒針は冷徹で無表情な即物的存在である。これではいくら頼みの視線を送っても、きっとことごとく突っぱねられてしまうだろう。その「一進一進」は、持ち主の人間の思いなどお構いなしである。

そんなイメージをもって掲句を読んでいたため、雅子の自解を意外に思ったのだった。一つの句の新たな読み方が開いたことで、いっそうおもしろく思った。

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