見よ:聖書をめぐる旅 8/24
8/24(火)<示された聖書の箇所→学び>
本日のキーワードは「人間の生きる目的」と「ビジョン」です。
神様が人間を用いられる目的、そして「見よ」という新約聖書のことばから気づいたことがあります。
サムエル記上5章
→ペリシテ軍によりイスラエル軍から奪われた契約の箱は、それ自体に手も足もついていないが、恐るべき奇跡と重圧をペリシテの領地に起こし始めた。一つは、一緒に置いてあったダゴンの偶像を夜のうちに倒し、頭と両手を切り離した。一つはその領地に住む者を腫物で打った。一つは、町中に重く神の手がのしかかった。こう見ると、神様はご自身で事をなさる方であることがわかる。しかし、今日キリスト者の手をご利用になるのは、神様の御心があると思われる。神様は、私たちの手や声、生きざまをとおして、人々を導こうとされているように思います。人間の生きる目的は、神様の救いの一翼を担うことではないか・・・と思わされました。
黙示録3章
→この章で気になったのは「見よ」という御言葉である。見るとはいわゆるビジョンである。イエス様は、天国の門を私たちのために開いて待っていてくださる。同時に、私たちの戸を叩いている。イエス様は、難しい方ではなく、私たちが心の扉を開けさえすれば、私たちと共に食事をしてくれる気さくな方である。イエス様の姿を見ることは、宗教から人を自由にし、真実をつかみやすくしてくれる。