
見えるようにしてください:聖書をめぐる旅 11/10
11/10(水)
列王記下6章は、預言者仲間と活躍するエリシャの様子が描かれています。
詩編59編は、敵からの攻撃にどう対処するか、ヒントがありました。
列王記下6章
ヨルダンに行き、梁にする材木を各自一本ずつ取って来て、わたしたちの住む場所を造りましょう。」エリシャは、「行きなさい」と言った。
神の人は、「どこに落ちたのか」と尋ね、その場所が示されると、枝を切り取ってそこに投げた。すると鉄の斧が浮き上がった。 「拾い上げよ」と言われて、その人は手を伸ばし、それを取った。
→預言者仲間が自分たちの拠点をつくるために、材木を1本ずつとってきて家をつくるという計画です。預言者学校では、自分たちで拠点をつくっているところが新鮮に感じました。
その材木をとる場面で、鉄斧の先が池に落ちてしまいます。エリシャが枝を投げ入れると、鉄の斧が浮き上がってくるという奇跡が起きます。
神様の手によると、鉄も水に浮き上がってきます。
この木は、イエスキリストの十字架を表しているように思います。
そのココロは、イエスキリストの十字架で救えない者はない、ということかと思います。
アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。
→もう一つ。アラムとイスラエルの戦いで、アラムの作戦がことごとくイスラエルに知られてしまいます。アラムの王は、スパイがいるがとして荒れ狂いますが、イスラエルの神様がことごとくエリシャを通じて、アラムの作戦を伝えていました。
ここを読むと、神様に聴く祈りの大切さを思わされます。敵に焦点を合わせるのではなく、神様に焦点をあわせると、解決の道筋が見えてきます。
今日も、御言葉に耳を傾ける時間を感謝します。
するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、 主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。 アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた。
→霊の目を開いてくださいというのが、前回の礼拝メッセージの中で思わされたことです。ここでは、自分の目ではなく相手の目が開かれます。
すると、神の国の火の馬と戦車がエリシャを囲んでいるのが見えます。
この霊の国の軍隊を動かすのは「この異邦の民を撃って目をくらましてください」という言葉であることも注目です。
詩編59編
神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。 わたしを陥れようとする者を 神はわたしに支配させてくださいます。
口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に 自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に 彼らが捕えられますように。 御怒りによって彼らを絶やし 絶やして、ひとりも残さないでください。 そのとき、人は知るでしょう 神はヤコブを支配する方 地の果てまでも支配する方であることを。〔セラ
わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。 わたしの力と頼む神よ あなたにほめ歌をうたいます。 神はわたしの砦の塔。 慈しみ深いわたしの神よ。
→自分が何かをしたわけでもないのに、他者から攻撃されることはありませんか?
不義に対して、私たちはどのように対応したらよいのでしょうか?
私たちは、雨の日には傘をさす自由があり、雪の日には長靴をはく自由があります。
神様に頼るとき、私たちがその攻撃に反応したり、仕返しすることよりも、自分で掘った穴に相手が落ちるのを見るのみです。
私たちは裁き主ではなく、真の神様がその人の言葉、行動を裁かれます。
私たちは、私たちに任された役割を果たすのみです。