わたしを究め:聖書をめぐる旅
1/29(土)
今日のアッシリアのセンナケリブとユダのヒゼキヤの戦いは、舌戦です。言葉によって、相手の戦意を損なう闘いです。それに対して、ヒゼキヤのとった戦略は、私たちがよく知っているシンプルな手段です。詩編139編は、私の人生を織りなしてくださった、神様の創造について考えさせられました。
歴代誌下32章
1ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。
10「アッシリアの王センナケリブはこう言われる。お前たちは何を頼りにして、包囲されたエルサレムにとどまっているのか。 11ヒゼキヤは、『我々の神、主がアッシリアの王の手から救ってくださる』と言って、お前たちを唆し、飢えと渇きで死なせようとしているのではないか。
20ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ。 21主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいる勇士、指揮官、将軍を全滅させられた。王は面目を失って帰国し、その神の神殿に来たところ、自分の血を引く王子らによって剣にかけられ倒された。 22こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブおよびあらゆる敵の手から救い、周囲の者たちから彼らを守って安らぎを与えられた。
30上の方にあるギホンの湧き水をせき止め、ダビデの町の西側に向かって流れ下るようにしたのも、このヒゼキヤであった。ヒゼキヤはそのすべての事業を成し遂げた。
→南ユダに、アッシリアのセンナケリブの軍隊が攻めてきます。
センナケリブの部下は、ヒゼキヤを嘘つき呼ばわりし、さらにヒゼキヤの信じている主を冒涜する言葉を多くの民の前で吐き捨てます。さらに、センナケリブ本人からも侮辱の手紙がヒゼキヤに届きます。彼らは、言葉によって人々をおびえさせ、戦意を失わせようとしています。
それに対して、ヒゼキヤがとった作戦とは何でしょう?
一つは、水源を確保すること
一つは、戦時中の隊長を任命し、勇気づける言葉をかけたこと
そして
一つは、預言者イザヤと共に、彼らの主に祈ることでした。
主イエスの名によって、2人3人があつまるところに、主はおられます。
彼らは、武器を使用することもなく、神の御使いが敵のセンナケリブの勇士、指揮官、将軍をことごとく全滅します。センナケリブは命からがら自分の国に帰り、自分の信じる神々の神殿で殺されてしまいます。
私たちの祈りとは、このイザヤとヒゼキヤが祈った同じ主にささげられている祈りであることを、あらためて畏れつつ確認しました。
今日、私はこのコロナウイルスが沈静化することを主に祈る者です。
7「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。 8敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる。」
詩編139編
主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。
13あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
15秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
→究(きわ)めるという言葉は
普段あまり使わないので、調べてみると
「深く研究して、すっかり明らかにする」
「決める。定める」という意味もあるようです。
すなわち、主が私たちを究めるとは
「私たちのことを、深く研究して、すっかり明らかにする」
「私たちのことを、決める。定める」ことです。
私たちは、神様の御手によって、ハンドメイドでつくられ、
目的をもって隅々まで創られた者です。
偶然にできあがった者ではありません。
神様が私たちを明らかにされ、
神様が私たちに目的を定められました。
そして、この終わりの時代に生かされている視点に立つと
天国に人々を導く最終バトンを渡される者でもあります。
このことを、大変だと思いますか?
栄誉だと思いますか?
私は、後者の方です。
喜んで、使命を果たしたいと思います。