暗黒を前に:聖書をめぐる旅 3/30
3/30(水)
ヨブ記からは、暗闇が人生の目の前に置かれたとき、どうかんがえるか?
雅歌は花言葉から、この御言葉の意味に思いを巡らせてみました。
ヨブ記23章
16神はわたしの勇気を失わせ
全能者はわたしをおびえさせる。
17わたしは暗黒を前にし
目の前には闇が立ちこめているのに
なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。
ヨブの自分に対する洞察は
ある意味理解できます。
理不尽という名の暗闇を目の前におかれ、
理由も知らされず、私に何をせよと言うのか、いっそ命を断ってほしい。
かつてお世話になった牧師先生からは、ヨブと同じような苦難を人間は通らなくていいという話があり、私は安心していましたが、もしも自分にヨブのようなことが降りかかったら、と思うと不安で仕方なくなります。
人生は、これで終わりになってくれたらいいのに、というタイミングで終わらず、むしろもういいという段階まで伸びることがあります。
身体も動かず、意識も朦朧とするなかで、命だけ長らえる。
神様、私はどうしたらいいのですか!と叫びたくなります。
しかし、この暗闇を置かれたことについても、神様の計画があるという
視点もあります。
ヨブに当てはまるかどうかはわかりませんが、
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みます。
雅歌6章
11わたしはくるみの園に下りて行きました。
流れのほとりの緑の茂みに
ぶどうの花は咲いたか
ざくろのつぼみは開いたか、見ようとして。
12知らぬ間にわたしは
アミナディブの車に乗せられていました。
いくつかの植物が出てくるので、花言葉を調べてみました。
クルミは「知性」
ぶどうは「陶酔」「慈善」「人間愛」
ざくろは「成熟した美しさ」「結合」「互いを思う」
若者は、「知性」の園に降りていき、確認していたのはぶどうの花の「陶酔」であり、ざくろの「成熟した美しさ」。
残念ながらアミナディブの意味がわかりませんが、花婿イエス様が求めているのは、花嫁の自分に対する「陶酔」であり、花嫁としての「成熟」であるのかもしれません。そして、ざくろの花言葉に「結合」とあるように、やがて花婿と花嫁が結ばれることを示しているように思います。