見出し画像

方丈記を読んで「あきらめ」の理解をアップデートした!!

 この本を読むことになったきっかけは、RSGT2022の旅する本棚の前で岩切さんとちょっとだけ交わした雑談がきっかけです(この場を借りて、感謝!)

みんなもご存知、冒頭の一文と主題

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし

方丈記

 これは有名な1章の冒頭です。いきなり言い切っている。そして、この後13章まで(こんなに続いているとは知らなかった。。)は、2章以降はこの主張が正しいことを、自分に必死に言い聞かせている様な文書が続きます。そして、そこが人間味があって素敵!
 方丈記は全体を通じて、「あきらめ」という考えが表現されているのですが、やっぱり「あきらめ」ってそんな簡単じゃないよねっていうのがにじみ出ていて(主観です)、そこが最高でした。

「あきらめ」の理解のアップデート結果

 だいぶ解像度上がりました。そして、個人的には不惑とあきらめってにているなぁと思ってきました。

Before:
 諸行無常、キリッ

After:
 自然や生命や人の営みを含めて定常状態はありえない、ということを頭での理解できたし、体験からもわかった。今はいろいろ受け入れることができて心穏やかに幸せ。でも、余生も考えるし、うまく行っていればあんな暮らしもできたのになぁ、という気持ちって、どうしても思い浮かんでくるので葛藤はきえないよね。(おおむね諦観して心の状態になりつつも、完全に執着の心をなくすことも難しそうだから悶々とした気持ちは抱え続けるもんだよなぁ、だって、にんげんだもの。)

心のノート

不惑の定義(わたしの拡大解釈)
 40にして迷わず。というか変化が激しいの中に生きているのだから、いちいち迷っていることを気にかけて迷ってもしょうがないので、迷わないことにしよう(でもいつも迷っているよ)

心のノート

関連して、動的平衡という概念とのつながり

 並行して、「福岡伸一、西田哲学を読む」という本を読んでいるんですが(生命の動的平衡と西田哲学の共通点から相互理解を深めていく感じのないよの本です)、そこでもちょうど方丈記の引用が出ていて、「確かに、どっちも動的平衡じゃん」という、セレンディピティを感じてしまいました。
 ただ、生命の動的平衡はあくまで客観的なのにたいして、「あきらめ」のような諸行無常は同じテーマを扱っていながら、主観的な要素が入ってくるので、また複雑にもなり、割り切れない要素も入り、深みが増す感じが素敵でした。
 参考まで、こちらの書籍からもいくつか引用を

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない
(シェーンハイマー)

生命とは動的平衡にある流れである
(福岡伸一)

全体的一と個別的多との、主体との客体との、内と外との矛盾的自己同一的に、尾を噛む蛇の如くにして、生命というものがあるのである
(西田幾多郎)

福岡伸一、西田哲学を読む

 なんか、引用を踏まえて、方丈記の冒頭をもう一度読むと、ミクロでの生物の営み、生体としてのマクロの営み、社会としての営み、等々動的平衡という軸でフラクタルな関係でつながるんですよね。って言う話をしていると、アレグザンダー好きの方が寄ってくるので、まさかりを振り下ろされる前にこのへんで閉じようと思います!!

今回読んだ(でいる)書籍の紹介


いいなと思ったら応援しよう!