八百屋の黒板の物語 「葉玉ねぎ」
営業所に戻ってきた園田の手には、葉玉ねぎが握られていた。
「あっ、葉玉ねぎ」
と、事務の片岡咲子が指摘すると、園田は葉玉ねぎを左斜め上に掲げて「thank you」と呟いた。
「いーや、主演男優賞のスピーチ!」
営業所長の松尾がツッコむ。
今、この職場では、東京ホテイソンが流行っている。
大の大人が恥ずかしげもなくお笑い芸人のフレーズを口に出せるのは、「話芸はタクシードライバーの基本技術」などと主張するこの営業所長の影響である。ボケた方もツッコんだ方も満足げにニヤけている。
「春の足音です。自慢しにきました」
葉玉ねぎとは、玉の部分が大きくなる前の玉ねぎである。球の部分だけではなく、先の葉っぱの部分まで食べることができる冬から初春に旬を迎える野菜である。
その葉玉ねぎをトートバッグに仕舞ったあと、石油ストーブの前で手を擦り、園田はポツポツと話はじめた。
「パチンコラスカルに寄ったんです」
「勝ったか?」
所長が口を挟む。
「制服姿でウチの会社を十分アピールしてきました」
園田は所長のノリに更に悪ノリで返す。今の時代、下手したら炎上する様な事をする社員はウチにはいない。
「あそこのトイレ、裏口から近くて便利なんです」
「駐禁の取締りも少ないからな」
と所長も頷いている。
ドライバーたちは、街中のトイレに詳しい。買い物せずにトイレだけ使えるか?駐車場はついているか?温水便座はついているか?
トイレ専用の地図を作っている社員もいる。
「で、裏口横の喫煙所で一服してたら、斜め向かいの『まるまり商店』の黒板が葉玉ねぎだったんです」
園田がマグカップのコーヒーに口をつける。
「そしたら昔のことを思い出しまして」と園田が話し始めた。
ウチは母親だけの片親だったんですけど、経済的には恵まれてて、妹も自分もあんまり苦労した記憶が無かったんです。
でも世間では片親って知られると、何故か同情されるんです。制服のクリーニングとか散髪とか、クラスメイトよりよっぽどマメにやってたんですけど。
ある時、母親がしょんぼりして帰ってきました。そのしょんぼりの理由は
「葉玉ねぎがあったからすき焼きにしようとしたら、牛肉が売り切れだった」
というものでした。
すき焼きを諦めるか、他の店でかってくればいいのに、その時だけ豚肉だったんです。すき焼きといえば牛肉という固定観念が僕ら兄妹にはあったんで、非難轟々でした。
ただ出来上がった豚肉のすき焼きは意外に美味しくて、牛の時よりも箸はすすんだと思います。妹は
「私は『すき焼き風』の方が好きかも」
なんて言うもんだから、我が家では豚肉のすき焼きの事を『すき焼き風』って呼ぶようになったんです。
「葉玉ねぎですね」
園田の話を聞いた咲子がつぶやく。
「優しさでもある」
と所長が言いながら園田の隣に腰掛けた。
「優しさ?」
聞き返す園田に所長は続ける。
「多分だが、母親は葉玉ねぎには豚肉の方が合うことを最初から知ってたんじゃないのか?」
「じゃあ、なんで売り切れなんて嘘をついたんですか?」
「そりゃ、言っちゃ悪いが母子家庭の引け目みたいなモノがあったんじゃないの?
いきなりすき焼きの肉が牛から豚になったら、お前ら兄妹がウチの家計は実は厳しいんじゃないかって、要らぬ心配をするとか」
という所長の指摘に、園田が天を仰ぐ。
その姿勢がおもしろくて咲子も一言付け加える
「良いお母さんじゃないですか、息子さんはこんなに素直に育ったんですから」
頷きながら所長も
「俺はお前らよりだいぶ長く生きてるが、スーパーや肉屋で牛肉が売り切れてるところなんて…」
いったん間を置いて。
「いーや、台風続きの離島!」
今、この職場では東京ホテイソンが流行っている。