
【雑記】心に強く残っている歌詞(7):『Long Time Friends』
▼ 曲
曲名:『Long Time Friends』
アーティスト名:The Living Tombstone
▼ 歌詞の和訳
(※自分で訳したもの)
また一つ小さな棘のある言葉、また一つ意味のない言い訳
また一つ笑えないジョーク
また別の、自分のものじゃないみたいな一日
俺の居場所なんて本当になかった
だから、もうこんな日々は終わりだ。裏切られ続けてるような日々は
怒りに歓迎の挨拶を。寂しく思ってくれていたか?
分かってるよ、長いつきあいの友人みたいに
笑いながら俺に毒を向けてくれていたな
知ったことか、まだ俺を愛してくれていようが
知ったことか、まだ俺を気にしてくれていようが
俺に分かってるのは、すまないと思ってることだけ
あんたは俺を成長させてくれた。心の準備はできていなかったが
根っこから引き抜いてあんたのことを払い落とす
自分に何が残っているのか見てみよう
たとえ最初からやり直さなくちゃいけないんだとしても
あんたと一緒にやってきたことが全部無意味だったとしても
ああ、そんなことはどうでもいいさ
(※)
俺は一人で、自由になった
俺は何も間違っちゃいないんだから
どうでもいいのさ
あいつらが何を言おうが
他人のために生きるのはもう終わりだ
誰かの小金のために動くのも
だから砂に俺の線を引こう
どうでもいいって分かってるからな
また一つやり直し、また一つ残り続ける失敗
また一つ自己羞恥
マシな一日になって、もう関わらなくていいってことに清々するよ
誰が関わるってんだ
だから孤独な日々を終わりにしよう。全く問題ない
怒りにさよならを。俺をなつかしんでくれるかな?
よく分かっていたさ、長いつきあいの友人みたいにな
もう二度と友人にはならないよ
あいつらが俺をまだ愛してるのかなんて知らない
あいつらが俺をまだ気にしてるのかも知るもんか
分かってるのは、すまないなんて全く思わないってことだけ
なぜなら俺は誰も伴わずに一人で行くから
あいつらと一緒にいるとき俺は孤独な気分だった
変に聞こえるかもしれないが、逆なのさ
俺は邪魔な部分を切り落とすんだ
あいつらは決して俺をまともに扱わなかったんだから
ああ、クソ素晴らしい気分だ
(※くりかえし)
あんたが俺に向けていた愛情のことはもう考えないよ
もう気にすることもないだろう
疑いもなく分かってる。もしまたあんたと会うことがあるなら
あんたの日々を、月日を、年月を、台無しにしてやるだろう
なぜならあんたが毒を向けてられる犠牲者はもういないからだ
あんたはその毒を自分だけで抱えるんだ
俺は新しい人生を生きる。後悔もしない
あんたは思い出だけ持ってりゃいい
あんたは忘れられないんだろうな
(※くりかえし)
ああ、もう問題じゃないさ
(あいつらはもう嫌になってきてるかな?)
ああ、もう問題じゃないさ
(俺はこれを越えていく)
全く俺には知ったことじゃない
▼ 曲の内容について
長く続いていた友人との縁を切る。そういう歌だ。
音楽は軽快で楽しげにすら聞こえるが、声には怒りが含まれ、歌詞は拒絶を語る。
ミュージックビデオの映像がまた暗喩的で、青年が迷路の中で何故か敵意むき出しのおっさんに詰め寄られ続ける内容になっている。青年は逃げるが、その目に恐怖はなく、むしろ腹立たしさと怒りに満ちている。理不尽な敵意にさらされて関わりたくなくて仕方なく逃げてはいるが、怒りのままに反撃するべきだったんじゃないかと考えている。そんな風に見える。
怒り。腹立たしさ。敵意。不和の決意。
否定したがる人もいるだろうが、それらの感情は少なくとも当人にとっては重要なものだ。そこに目をつぶってなあなあに生きることは、自分をなくすこと。そう思えてしまう時もある。
もちろんそれは決して暴発させるべきではない。だが、常に飲み込んで平和な顔をしていろと言われても納得がいかない時はある。それが正しいかどうかは別問題だが、「私は怒っているんだ。あんたらのいいように動いてなどやるものか」と声を大にして表明したくなることはある。
この曲を聞いていると、そうした抑えがたい生の感情が強く刺激されるのを感じる。
▼ 個人的な思い出
この曲を初めて聞いたのと同じ頃、自分も実際にとある友人との縁を終わりにした。
それなりの年月の交流があった友人だった。同じ業界で働く間柄で、最初も彼の方から声をかけてくれて、別の会社で働いていた間も時折連絡をくれた。消極的で根っこが人間嫌いの私は実を言うと彼の積極性がやや苦手だったが、それでも彼が私のことを友人として気にかけてくれていたことは疑わなかったし、こちらからも彼を友人と考えることに疑問はなかった。
(まあ、それは友人の定義にもよるかもしれない。私にとっては日常の中で敵意を表にすることなく馬鹿話ができればそれで友人だ。それ以上のものは特に友人の条件にはしていない)
だがその一方で、「彼は私のことを下に見ているんだろうな」と思わされることも時々あった。
例えば、いつだったか彼がいきなり私の携帯電話を手に取ったことがあった。そして目の前で暗証番号の解除を2回試して「数字を予想できるかと思ったができなかったわ」とだけ言って携帯を返してきた。
何してくれてんだコイツ、許可無く人の携帯の中身見ようとしてんじゃねえよ、と私は思ったが、彼は全く悪びれる様子もなく既に別の会話に話を移していた。
そういう「なんかコイツ腹立たしい扱いしてくるな」ということが日常的にチラホラあった。
本人に悪意はないようなので責めづらかったが、彼はそういうこちらを軽視しているような距離の詰め方をしてくることがたびたびあった。
Another little abuse, another pointless excuse
Another joke that's not to laugh at
(※訳)
また一つ小さな棘のある言葉、また一つ意味のない言い訳
また一つ笑えないジョーク
I know it so well, like a long time friend
Who smiles while poisoning me
(※訳)
分かってるよ、長いつきあいの友人みたいに
笑いながら俺に毒を向けてくれていたな
彼自身は、どうやら「自分は誰とでも気軽に話ができる気さくな人間だ」と思っていたようである。
一方、私は彼のことを「漫画『美味しんぼ』に出てくる迷惑な上司たちみたいな性格だな」と思っていた。
許されない悪では決してないが、身近に常にいられると疲れるヤツ。相手の気持ちなど意に介さず偉そうになれなれしく踏み込んできて、よく自分でトラブルを発生させておきながら、臆面もなく周囲に押しつけて悪びれもしないヤツ。
自己顕示欲が強くて行動力はあるので会社という集団の中では上からの目にとまって出世の波に乗りやすいが、個人としてはいろいろ反感をもたれやすいヤツ。
ちなみに彼の部下からの内輪の評判は「思いこみが激しくてよく話が通じなくなる」だった。
まあ結論としては、特に珍しくはない自己中心的なヤツだったと思っている。どこの社会にも似たような人はいる。
自己中心的という意味では私もベクトルは違えど人のことを言えた義理では全くないし、それなりの距離を保っている間は私たちは友人関係を保っていた。(おそらく別ベクトルの自己中心性だったからこそ、うまい具合に明確な衝突を避けられていたのだろう)
だが同じプロジェクトで仕事することになって、そのプロジェクトがうまくいかなくなる中で、私たちの間柄はギスギスするようになった。
おそらく彼からすると「気安く扱えるヤツだと思っていたが、実は思っていた以上に自分の思い通りに動いてくれないヤツだった」という感覚だったのではないかと思う。
一方、私の方も「これ以上つきあわされるのはごめんだな」としか思えなくなっていた。
私たちはお互いに幻滅して、最後はプロジェクトの解散とともにお互いに事務的な別れの言葉を交わして、以後は没交渉になった。明確に言葉にして縁を切ったわけではないが、お互いもう自分から相手に話しかけたりすることはないのだろう。
友人を失ったことに寂しさが無いわけではない。
彼を責めたいわけでもない。どちらかというと私たちの友人関係を壊したのは、私の非協調的な偏屈さだろう。
だがそれでも、無理して友人としての間柄を続けたいとは微塵も思わなかった。清々した。
I knew it so well, like a long time friend
We'll never be friends again
(※訳)
よく分かっていたさ、長いつきあいの友人みたいにな
もう二度と友人にはならないよ
そうした自分の出来事と前後して耳にしたのがこの『Long Time Friends』になる。聞いたとき、自分の中の多くのわだかまりがしっくり形になった感覚があった。
ああ、これが自分の感情だ、と強く共感した。
その感情が誉められたものでないことは知っている。もっと別の感情を持てる人間だったらよかったのにと思うこともある。
だがそれでも私は彼と友人であり続けることはできなかったし、その感情を手放してなあなあで生きることは許せなかったのだ。