選択的夫婦別姓と小室圭さんのポニーテールにみる日本人の寛容さに関して
ちょうど、この記事を書き始めた前日に、自民党の総裁選がありました。結果は岸田さんが自民党の新総裁となりましたが、私個人は高市さんが選ばれることを期待していました。
歯切れの良さと、丁寧な説明ぶり、愛嬌も見え隠れする対応の上手さ。
それだけではありません。
高市さんは、総裁になっても、靖国神社の参拝をすることを明言したことと、選択的夫婦別姓については、これまで否定的な立場をとっていたことも、私にとっては、心強く、正しいと信じたことは時代の流れに左右されず、ブレずに貫く人だと映ったからです。
さて、私は選択的夫婦別姓の議論をこれ以上進めることについては、反対の立場です。
かといって、結婚したら妻が夫の姓を名乗らなくてはならないとも思っていません。そこは話合って決めれば良いと思いますが、これまでの慣習から、「その理解を得るのが難しいんでしょ!」という声があることも否定しません。
しかし、私の周りには、仕事では旧姓を使っている方はごく当たり前に存在しますが、苗字のことで揉めたなんて聞いたことがありませんから(幸いウチの家庭も)、そもそも選択的夫婦別姓問題が差し迫った問題であるという声に懐疑的です。
選択的夫婦別姓の問題について、新たな枠組みを設けるというよりは、今の枠組みをきちんと国民に知らしめて、今以上に理解を広めて行くことの方がはるかにたやすいのではないでしょうか。なんでもかんでも、多様性という言葉を味方につけて、民意を得ようとするやり方はいかがなものかと思います。
選択的夫婦別姓について、もう少し書きます。
家庭を持っていなければ、子どもが産まれていなければ、そんなことはどうでも良いという立場だったかもしれません。
私は、日々報道される、子どもが加害者、被害者になる悲しい事件を見るにつれ、家族を守るのは、基本的には家族であるべきだということを強く感じるようになりました。
「別姓にすると、家族としての一体感が失われる」という意見に対して、「外国を見ろ」とか、「同性でも離婚してる夫婦なんて山ほどいるわけだから、別姓にしようが別に変わらないだろ」という声があがりますが、それらが正しいとは私には思えません。
別姓にすると家族としての一体感が失われることは、私は、少なくとも事実だと思います。その理由だけで反対することは、反対の根拠に乏しいとされてしまうのでしょうか。
少し愚痴っぽくなりましたので、話を変えます。
さて、先日小室圭さんが帰国をされました。
ポニーテールでした。私は似合ってるなぁなんて思いながら、ボケっとそのニュースを見ていました。
小室圭さんのポニーテールは瞬く間に悪意に満ちた報道をされ、わざわざそんなことをツイートする著名な脳科学者まで出てくる事態になりました。
一方で、夫婦別姓、LGBT、外国を真似ろといった、随分と寛容なこの国でありながら、たかが一個人の髪型について、気になって気になって仕方の無いこの国で、本当に多様性なんてものが浸透するのでしょうか。
疑問です。