MASAKO 4
正子が、発熱した。
………
初詣の柴又帝釈天は賑わっていた。人の賑わう声は荒ぶる川の音に似ている。落ち着いた会話、子どもの笑い声、久しぶりに会った友への歓喜の声、混雑への不満、お好み焼きや焼きそばの焼ける音、餅が膨らんで弾けるポスっという間の抜けた音。食べる音、下駄の足音。その全てが混ざり合って、川は荒ぶる。川に飲まれて、鼻がツンとする。
耳をつんざくような正子の母の声は、常に僕に向けられている。正子の父はキョロキョロと好奇心を四方八方に向けていた。正子の空気は重い。僕は正子の母に合わせ、努めて笑顔を作った。
「毎年来てるのよ」と正子の母はいい、意気揚々と靴を脱いでお堂へ入っていく。色の濃い床を冷たさを感じながら歩く。正子はうつむいている。荒ぶっていた川の音が遠くなった。
〝僕は何故、ここにいるのだろう”
ふとそう思った。床の冷たさが靴下を通過して、僕の足に響いた。
…
〝僕は何故、ここにいるのだろう”
正子の父にみぞおちを殴られ、僕はまた思った。
初詣を終えて、僕たちは荒川の川辺を歩いていた。やっぱり帰ろう。そう思い口に出そうと正子の父に目を向けた瞬間、正子の父は左手で僕の胸ぐらを掴み、右手でみぞおちを殴った。
「帰らないよな、ついてくるんだろ?」
正子の母はそれを見ながら満面の笑みでこう言った。
「一緒に来なさいな。」
助けを求めて正子を見ると、彼女の目が言った。
〝絶対に来いよ。来なかったら、その時は憶えていろよ”
正子の後ろで荒川の水は穏やかに流れた。
…
「あなた、絵本好きでしょう?これ、持ってきたの。じゃあ読むわね。」
正子の母がカバンからおもむろに出してきた絵本は、モーリスセンダックの「かいじゅうたちのいるところ」。
主人公のマックスはやんちゃで、それが過ぎてお母さんに寝室に閉じ込められてしまう。その寝室から木がニョキニョキと生え出して、部屋は森になってしまう。その森からかいじゅうたちが現れて、マックスはそれに立ち向かう。けれどそのうちマックスはかいじゅうたちと仲良くなって、かいじゅうたちと踊り出す。
この絵本の見せどころは、絵のみのページだ。かいじゅうとマックスがたのしく踊るページにセリフはない。
正月の居酒屋の個室は静かだった。正子の母がにっこりとページを捲る音だけが響くこの個室で、正子の婚約者は酒のグラスを置いて黙っていた。正子の父はごくごくと酒を飲んだ。正子の顔には怒りが噴出し始めていた。
この空間がまさに、〝かいじゅうたちのいるところ”であった。
…
正子が体調をこじらせたのは春の初めの頃だった。近くに住んでいた僕はしばらく面倒を見に行っていたが、そこには男がいつもいた。正子の婚約者となる人物である。部屋にいくといつも彼が正子を看病しているので、僕はそのうち正子の部屋には行かなくなって、幸子の家に繁く通った。幸子は正子に会わなくなっていた。何故かは知らないが、そうなっていた。僕はその理由は聞かずに、幸子と変わらず酒を飲んだ。
島の漁師に気に入られた幸子の家には毎年ヒラマサとわかめが届いた。幸子は出刃包丁を持っていたが魚は捌けなかった。僕はネットで検索して動画を見ながらヒラマサを捌き、その間に幸子はわかめを捌いて湯掻いた。
焼酎を飲みながら湯掻いたワカメとヒラマサの刺身を食べて、僕は正子の今を想った。
幸子はうまいうまいとヒラマサと湯掻いたわかめを食べ、いつもと同じように僕に次々と話題を振った。僕はそれに答えながら、聞きたい言葉をわかめと一緒によく噛んで、焼酎とともに飲み込んだ。
何も言わなくとも季節は過ぎていく。何度か遠回しにソレを幸子に問うてみたが、幸子はそれをえんぴつで書いた文字を指で擦るようにぼやかした。
正子の婚約者は、幸子とも交流があった。僕は本当の事を知りたかった。正しくいうと、知っていたけれど、それを幸子の口から聞きたかった。
ある日、僕は正子と飲んでいる時に、幸子を呼んだ。えんぴつで書いた文字をぼやかされたままではいられなかった。
幸子が居酒屋に着くと、僕はそれを見つけて手を振った。幸子は僕に気がつくや否や途端に踵を返し、駆け出した。僕はそれを追った。追って叫んだ。逃げんじゃねーよ。
幸子は立ち止まり、僕をキッと切らんでこう叫び返してきた。
「私から全部を奪うな!」
僕は呆然とした。
そうだった。それが幸子だ。僕はこの幸子が、愛おしいのだった。この幸子の、このままがいいのだ。
幸子は夜のネオンに消えていった。
…
「かいじゅうたちのいるところ」を読み終えた正子の母は、胸を押さえて感慨深いというように目を閉じて微笑んだ。周りの心は死んでいた。
「なんで今なんだよ!」
正子はそう言い放った。留めていた感情が絵本を閉じた数秒後に噴出し、荒れ狂い、母に当たった。正子の父は婚約者にビールを注いだ。婚約者はグラスを傾けた。正子と正子の母はヒートアップし、ケンカになった。正子の父は婚約者に正子のどこがいいのかを聴き始めた。婚約者は語り始めたが、正子と正子の母の声にそれはかき消された。
僕は何故、ここにいるのだろう。
そう思いながらも、それを見ながら酒がすすんだ。
かいじゅうたちのいるところ。
今、この瞬間の光景は、まさに絵本のシーンでは言葉のないページになるだろう。
正子と正子の母のケンカの、正子の父と婚約者のやりとりの、
僕はその渦中にいるのに、この個室の天井からそれを見ているような心地になって、それからすぐして堪えきれず、大声で笑ってしまった。
笑いながら思った。
幸子に会いたい。
会ってこの話がしたい。
幸子はこの話を、眉を傾げて聴くだろう。
くだんねーなといいながら、スルメを齧る幸子がみたい。
かいじゅうたちは、個室で渦巻き、けれど終いの時間になるとぴしゃりとその戸を閉めた。
「娘をよろしく。」
正子の父はそう言い、正子の母は微笑んだ。
つづく
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