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世の中には、大抵どちらも存在しているんだよね

そうするかどうかは自分が決めるものとすれば、“どちらも存在する“という事が世の中に存在する事を認められる。

そうじゃないから苦しかったのだと、今、過去を振り返って思う。それが世にいう「翻弄」であった。

これからだって、翻弄される事はたくさんあるだろう。自分が決めると覚悟するにしても、その覚悟にはきっとレベルがあるもの。

今自分がどのレベルにあるかは、
翻弄された時にわかるのだ。

きっと、そうだと今は思う。

簡単に言えば、
確かなものなんて、存在しないんだ。

ちょうど昨日は冬至で、noteをずっと書いていない事を思い出して、なんだか久しぶりに書きたくなった。

けれど、冬至は何かを始めるには相応しくないとどこぞの情報から聞いていたので、やめた方が良いかなと思った。

でもやっぱり、自分がやりたいと思った事を冬至に遮られるなんて癪だな、って。

「冬至は黙ってカボチャと小豆でも煮てろ」みたいな事を、誰かが上から目線で言ってきているような感覚。

本当、ムカつく。

だから、構わず投稿した。

今日、改めて冬至を調べたら、「冬至は新しい事を始めるに相応しい日」と書いてあった。

どっちやねん。

そう思ったけど、結局僕は昨日noteに記事を投稿して、それですっかり満足できたのだからそれで良かったし、

世の中の大抵の事は両論存在するのだと、改めて気がついた。

「どちらを選択するかの責任を、自分で持ちなさい」

そう言われているみたいだ。

じゃあ、そう言われないのはどういうことかなって、今考えてみた。

・となりの家の庭でうんこをすること
・ズボンの上から下着を履くこと
・人の股間を嗅いで「光化学スモッグ」と感想を述べること

などを思いついた。


この間みた虹

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