【第26回】わいせつ表現はなぜ規制されるのか #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
古くから議論のあるわいせつ規制
どのような行為を「犯罪」として処罰すべきであり、どのような行為は犯罪とすべきではないか、という刑事政策の問題として、古くから議論があるものの1つがわいせつ物に関する罪です。
1965年にハーグで行われた国際刑法学会では、「性道徳および家族に関する罪」について、大幅な非犯罪化をすべきということが1つの議論になっていました。刑法で犯罪とすべきなのは、「よくない行為」をすべて網羅するではなく、生命、身体、自由、財産を侵害する行為であるべきだ、というのです。当時、アメリカで模範刑法典の起草がなされていたことから、「犯罪化と非犯罪化」ということは関心事だったようです。
表現の自由の制限という観点から考えてみる
これはいわば刑事政策の議論なのですが、これまで見てきた憲法の人権制限の理論と親和性があるように感じられるのではないでしょうか。
日本国憲法ができて間もないころは、憲法学者も、名誉毀損をする表現や、わいせつ表現は、そもそも表現の自由の外側の問題であるとか、(抽象的な)公共の福祉による制限だ、と考えていたようです。
しかし、公共の福祉論、あるいは人権制約について理論化が深化していくにつれて、表現の自由と名誉権の調整などの問題と捉えられるようになってきました。わいせつ表現については、なぜ制限されるのか、だれかの人権ないし憲法上守られるべき利益を侵害しているのか、ということが問題とされなければならないはずです。
後に最高裁の裁判官になる伊藤正己先生の憲法の教科書(『憲法 第3版』平成7年・弘文堂)には、「……支配者は、歴史上しばしば社会の秩序を維持するために、あるいは権力行使の支持を得るためにわいせつなものの取締りを強化した。それが、言論の自由一般への侵害につながったため、わいせつの取締りの強弱が表現の自由の保障の程度を見るバロメーターであるとも言われている」(311頁)としたうえで、「私見によれば、わいせつ文書、図画といえども憲法21条の保障する表現物であるから基本的には取締りの対象とすべきでないという考え方に賛成である。」(315頁)とされています。
問題意識は素晴らしいと思う一方で、いやいや、そこまで言われるのであれば、もう少し突っ込んでよ、という気もします。
歴史的には、永井荷風の『ふらんす物語』(博文館・1907年)が発禁処分になったり、森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』が掲載された雑誌『昴』が発禁になったことがあります。
日本国憲法の下でも、最高裁は、D.H.ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が刑法175条に違反するとして有罪判決が翻訳者に出したことがあります(最大判昭32.3.13)。
しかし現在、新潮文庫で完訳版が普通に本屋さんで売られています。現代では、これをわいせつ文書と感じる人はいないということだと思います。
だいたい、時代の先を行く文学や芸術、音楽なども、同時代には忌み嫌われることはよくあることで、同時代の評論家が酷評する、ダメだしすることは自由だと思いますが、国が、「価値がないというものである」、「社会的に抹殺してよい」と判断してよいかというのは別の問題だと思います。
『チャタレイ夫人の恋人』にしても、イギリスでのゼネスト、ゼネラルストライキをきっかけに、故郷の炭鉱の悲惨な状況を見たローレンスが、階級問題を主題とした作品です。貴族の妻となったコンスタンス・チャタレイの夫は、第一次世界大戦で負傷して下半身不随になります。跡継ぎを自身で作ることができないと考えた夫は、跡継ぎを作るために、子どもができたらすぐに身を引くことができる男と関係をもつことを勧めるのですが、チャタレイ夫人は、自分はチャタレイ家を存続させるだけの道具ではないかと感じます。チャタレイ夫人は、その男ではなく、労働者階級出身のオリバー・メラーズと恋仲に陥り……という世界の文学史上も評価されているローレンスの代表作ですが、性描写がけしからんので有罪、という話です。
憲法違反の疑い?
わいせつ表現を規制する理由はいったい何なのか、このことは古くから刑事法の研究者によっても論じられてきたことです。
刑法第175条第1項にいう「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物」も、憲法の観点からは表現の自由の対象であるとすると、これを制限する理由となる人権とは何なのか、いったい何を侵害しているのか、ということは問題となりえるはずです。
ただ、そもそもそんな検討をすること自体ナンセンスで、刑法の規定は明確性に欠けるので、文面上違憲とすべきだというほうが、理屈の上ではすっきりしているような気もします。
これまで、「文面上違憲」という言葉を使ってきました。これはどういうことかというと、もし、仮に自分に合憲的にその法律が適用されるのだとしても、表現の自由には萎縮的効果があるので、「自分以外の人がこの法律があることによって合憲的な表現をできなくなってしまっているではないか、だから、この法律の文面が憲法違反であり、自分にも適用されるべきではない」と主張できる、という考え方です。
刑法の規定では、そもそも「わいせつ」とはどのようなものを指すのか不明確ですし、行政権による恣意的な摘発が可能ですから、合憲的な表現も摘発を恐れ萎縮してしまうので、こんな規定そのものが憲法違反ではないかというのは、筋が通っているようにも思われますし、そもそも、表現の自由に関する理論以前に、罪刑法定主義という古典的な原則にも反しているではないかという主張も十分に理由があるように思われます。
ただ、この結論を採用すべきかどうかについては、なお検討すべきことがあるように思われます。
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