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【第63回】私人間効力の問題に関連して、評価規範と行為規範について #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話


最高裁判例の評価

日本国憲法の下で、違憲審査権が導入され、さまざまな憲法判断が下されました。その結論が学者にとっても満足のいくものであれば良かったのですが、どうにも人権の確保という観点からすると不十分に感じられる結論が多かったものですから、憲法学者の関心も、アメリカの判例で論じられるような違憲審査基準の研究に注がれるようになりました。それまでも、個別の人権について、アメリカの判例理論などの紹介をしつつ、日本の違憲審査への応用を唱える学者の方も少なくなかったのですが、芦部先生が「憲法訴訟」というテーマを引っ提げて米国留学から帰ってきたことから、私の学生時代には、憲法の論文集といえば、憲法訴訟一色という雰囲気でした。

現在でも、人権論の中心は、違憲審査基準にあるといっても過言ではないように思います。もちろん、違憲審査基準以外にも、たとえば従来のような典型的な人権侵害ではないような事象をどう考えるかとか、それこそ新しい人権についてどう構成するかなどという議論もあります。

また、近年でも熱心に論じられているのが、これまで私が説明してきたアメリカの理論に準拠するのではなく、ドイツの違憲審査基準を日本に応用できないか、というまさに違憲審査基準に関する論点です。

何のための法律学か

大学時代、憲法に限らず、教授たちは「学問のための学問だめで、実務に影響を与えることが大事」という趣旨のことを言われていましたし、現在の学者さんたちも同様の意識はあると思います。

ただ、そこで「実務」といったとき、憲法に関してはほとんどのウェイトが裁判実務を意識しているように感じられます。

自分が国会で仕事をしているときにも、最終的には政府案とはなりませんでしたが、漫画村による著作権侵害に対して、サイトブロッキングを行うかどうかという議論がありました。これは、通信の秘密を侵すものではないかという疑いがあるものでしたし、以前少しコメントした、あいちトリエンナーレ展への補助金不交付決定など、憲法上の疑義に対して、学会の反応は鈍かったように思います。少なくとも、本屋さんで見る法律雑誌ではタイムリーに特集が組まれるどころか、何らのコメント、評論さえ載っていないものがほとんどでした。

メディアのインタビューに対して、具体的な事件として事実関係が確定してからでないとコメントが難しい、という趣旨の学者の方の反応も目にしました。

しかし、それこそ憲法訴訟関係でも議論されることですが、政府などの行為が憲法に違反するとしても、必ずしもそれがすべからく裁判で取り上げてもらえることとは限りません。たとえば、人権侵犯事件としては損害賠償の対象とならないとか、救済に難のあるケースでも、行政の行う行為としては憲法上望ましくない、という場合はあり得るはずです。

つまり、裁判規範として、すでに行われた行為の評価に関する理論は精緻なのですが、法律を作る段階、行政執行の段階それぞれにおいて、行為規範として憲法が作用する場合の理論についてはいささか脆弱な印象があります。

ここ数年の間にも、新型コロナウィルスに対する対応をめぐって、私権制限や議会の在り方などについて、政治的な発言が続いてきました。このような問題に対して、学術的な見解がもっと発信されても良いのではないかと印象を持っています。

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