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【第28回】とらわれの聴衆 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

人権を制限できるのは人権しかないはず?

このような刑法での議論を憲法という観点から考えた場合に、どのように受け止めればよいのでしょうか。

人々の性的感情が刑法によって保護されるべきだとして、これの人々の性的感情、言い換えれば見たくないものを見せられることを拒否することが憲法上の人権と言えるかということが問題となります。

現時点でこれを明確な内容を持つ人権だ、ということは難しいように思われます。しかし、プライバシー権がかつてそうであったように、現時点では内容が確定的でないとしても、私は、表現の受け手の側の人権として構成されてよいものと考えています。

表現の自由は、送り手側だけでなく、受け手があって初めて成立するものと言えます。山に向かって自分の考え方を絶叫している局面では、表現の自由は問題とならないはずです。表現を受け取る側の存在が前提となっているはずです。

表現の受け手の側にとって、不愉快であったり、反対の意見であったとしても、その言論を保護するのが表現の自由の大事な点であることはこれまで強調して来たところです。これは、表現の内容について原則として規制してはならないということであって、受け手の側が、いつ、いかなる場所であっても、どんな方法の表現であっても、その表現を受け入れなければならいのか、というと、それはまた別の問題です。

憲法と刑法の理論 ―連立方程式の解を求める―

アメリカの判例で、「とらわれの聴衆の法理」という概念があります。とらわれの聴衆の法理とは、特定の場所や状況にある人を、望んでいない表現から保護するという考え方です。日本の最高裁でも、大阪市営地下鉄商業宣伝放送差止請求事件(最判昭63.12.20)の補足意見でも静穏のプライバシーとして憲法13条の幸福追求権に含まれると考えることができるのではないか、という趣旨のことが述べられています。この補足意見、伊藤正己裁判官です。

日本の事件名からも、アメリカの判例に現れる事案でも、わいせつ関係について争われたものではなく、その意味でわいせつ表現に固有の理論ではないのですが、刑法の議論と憲法の人権制約の理論とを橋渡しする考え方ではないかと思います。

表現の受け手の側の、静穏のプライバシーという呼び方が適切かどうかは別としてもこのような権利が表現の自由の対立利益だと考えれば、わいせつ表現についても限定的な規制ができる理由になるのではないでしょうか。

たとえば、公然わいせつ罪は、路上などで行為に及んだ場合に限定的に成立すると考えるべきでしょう。見たくない、という感情をもつ人がいる場所で行為に及んでいるから、という説明が可能です。

これに対して、わいせつ物陳列罪については、いわゆるポルノ雑誌やアダルトビデオ(DVD?)を売っている店であることを標榜するとか、あるいはその他の書籍とは別に売り場については別に設けるなどの方法をとっていれば、観たい人、欲しい人だけが接することができるわけですから、これも犯罪とはならないと考えるべきでしょう。ただし、標榜の仕方や、売り場の分け方いかんによっては、「見たくない人」に対して注意が必要かな、と思います。

たとえば、その手のものを売っている店が「次の交差点右折30メートル」みたいな大きな看板を大通りに掲げたりすることは、グレーゾーンに突入するように感じられます。

以前、税関検査事件の検討の際、わいせつの表現物だから輸入を禁止していいかということも気になるところではあるという留保をしていました。このような考え方からすれば、当然に輸入を禁止していいという結論にはならないはずだ、ということはご理解いただけるのではないでしょうか。

まとめ

ここまでの検討は、刑事法の議論を参考に、表現の自由が制約されるとすればどのような理由に基づくのか、という観点から、刑法の規定を憲法の観点から検討してきました。表現の自由が制約される場合があり得るとしても、刑法の規定はいささか広汎すぎることは否めないように思います。

なお、ポルノ雑誌やアダルトビデオなどが性的搾取の温床となっているという指摘については、別の問題だということは念のため繰り返しておきたいと思います。犯罪が成立しないというのは、成人による、表現の送り手も受け手も双方に同意がある場合の話です。このような行為も規制すべきだという主張があるのだとしたら、それは憲法の理論からは正当化できないだけでなく、「言論の自由一般への侵害につながった」という伊藤正己先生の言葉を改めて想起する必要があると思います。

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