【第9回】近代立憲主義の特徴と時代背景② #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
国家からの自由
これまで見てきたように、「人権」というのは、論理的な思索によってたどり着いた作品ではなく、何らかの制度なり弾圧があって、「そんなことは国家としてすべきではない」という闘争から勝ち取られてきたものです。視点を変えると、啓蒙思想も、ただただ思索を重ねて論理を積み重ねてできあがった、というものではなくて、その時代の社会経済的な背景、バックグラウンドがあり、これを批判するための理論として構築され、それが多くの人々の心に響き、支持されたものと考えられます。
絶対王政や封建的支配を倒したことについては概観してきましたが、近代市民社会といわれる社会には、どのような社会経済的な背景があったのか、そのうえで、政府が果たす役割、国家というものはどうあるべきと考えられていたのかについてみていきたいと思います。
invisible hand of God
アメリカやフランスで革命が起きた時代というのは、18世紀後半イギリスで産業革命が進行し、資本主義経済が確立した時代でもあります。
マニファクチュア(問屋制家内工業)に代わって工場制機械工業が発展し、工場などの生産手段を持つ資本家による自由競争が行われる時代が始まりました。この自由競争の利点を説いたのが、アダム・スミス(1723~90)です。1776年に刊行された「国富論(諸国民の富)」で、予定調和説を唱えます。各人が自由な経済活動を行えば、「神の見えざる手」によって最も望ましい経済活動が実現され、社会の調和が生まれるというものです。自由放任政策、「レッセ・フェール」と呼ばれるものです。今風に言えば、「民間でできることは民間へ」を徹底すべし、といったところでしょうか。
夜警国家観
国家の役割については、極力国民の経済活動には干渉すべきでなく、国防や司法など最小限度のことを行えばよいと主張しました。平たく言えば、国の役割は、泥棒が入るのを防ぐためにお巡りさんが夜の巡回をする程度のことをすればよい、あとは余計なことをしてくれるな、という考え方ですので、夜回り国家観とか、夜警国家観と呼ばれています。
このような時代背景、そしてアダム・スミスの考え方は、天賦人権論と親和性があるように感じられます。
もし政府が、経済活動に何らかの制限を加えるとか、表現の自由に対して事前に内容を届けさせるなどのようなことは行うべきではなく、もしそのようなことを行えば、国による干渉であり、それを排除すべきだ、というのが人権宣言で謳われていた内容のはずです。つまり、国家からの自由を内容とする「自由権」はまさに、所有権や経済活動の自由、あるいは表現の自由に対して国家が干渉することを排除する(防御権)というものですから、夜警国家観と表裏の関係といってもいいでしょう。
カンのいい方はお気づきかと思いますが、この時代から、社会経済は大きく変わっています。人権保障の在り方や国家の役割についても近代と現代では違いがありますが、その点についてはまた改めて。ここまでは、立憲主義とか、人権という言葉について、いろいろな背景や理屈があったんだなぁ、ということを理解いただきたいと思います。
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