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【第11回】近代から現代へ 夜警国家観から福祉国家観への転換 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

産業革命

近代市民革命がブルジョワ革命だったといっても、イギリスが「世界の工場」と呼ばれるようになるのは19世紀になってからです。
人権宣言の時代に想定されていたのは、あくまでも国家の干渉を排除して、対等な関係の個々人が契約を結んで、仕事に従事する社会でしたし、貧富の差はあったとしても、それは頑張った人が報われたからで、豊かになる機会(チャンス)はだれにでも平等にあったはずだ、と考えられてきました。

19世紀の後半に入ると、鉄鋼や電機などの重化学工業における技術革新と大量生産、いわゆる第2次産業革命がはじまります。こうなってくると、建前は自由競争ですが、巨大資本が弱小資本を駆逐し、あるいはのみこむ「独占」の傾向が強まります。

スタンダード・オイル社という会社は、競争会社を統合し、傘下に入らない会社があると、収益性を無視したとんでもないダンピング価格で灯油を売りました。こうなると、価格競争でかなわない会社は、潰れるか、スタンダード・オイル社の傘下に入るしかありません。競争会社を淘汰すると、今度は価格をグンと引き上げて、前の損を取り戻す、ということを行いました。こんなことをされては、自由競争の結果、「神の見えざる手」によって適正な価格に落ち着くという市場機構が働かなくなります。

また、生産力が増大して、供給が需要を上回ってしまうと、モノが余ってしまいます。この頃から、過剰生産による不況がしばしばおこるようになります。その極端なケースが、1929年にアメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌でした。
このような過程で、事業を大成功させた資本家と、失業の危機に脅かされる労働者との間の貧富の差はどんどん拡大していきました。これでは、貧富の差はその人が頑張ったかどうかによって生まれるのではなく、構造的に生み出されるものではないか、と考えられるようになってきます。
また、私的自治の原則に基づいて、使用者と労働者が労働契約を結ぶとすれば、実質的には対等性のない契約ということになります。

こうなってくると、国家というのは、できるだけ何もしないことが良いことだなんて牧歌的な考え方、夜警国家観はもはや時代遅れということになります。

社会国家・福祉国家へ

1917年から始まるロシア革命により、1922年にはソビエト連邦が成立しています。資本主義国においても、労働運動が盛んになり、社会主義政党が勢いを増します。

資本主義国もうかうかしてはいられなくなります。国の役割も、自由放任では一辺倒では済まされなくなり、社会保障制度や住宅政策など、社会政策を進めることが必要になってきました。

ケインズ(1883~1946)が、有効需要の理論に基づいて、公共投資などによって完全雇用を実現すべしと唱えたのもこの時代です。

アメリカでは、1930年代に、アメリカのフランクリン・ローズベルト(1882~1945)大統領がニューディール政策を行ったことは有名です。

このように、国家の役割についても、市場対して介入を行い、また、社会政策を積極的に行うべきという社会国家、福祉国家観へと変わっていったのです。

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