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【第35回】パターナリズムについて #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

人権とそうでない一般的自由との区別の問題について検討したのは、パターナリズムの問題をきっかけとしていました。

パターナリズムについては、特に未成年者の問題を中心に論じられます。しかし、法規制には、未成年者に限らず、あなたを守ってあげるために罰を与えるのですよ、という規制は少なくありません。

近代市民革命においても、あるいは人権が現代化していく過程においても、未成年者の人権制限については、特にクローズアップされたことはありませんでした。人権は、机の上の理論ではなく、その時々の闘争によって獲得されてきたものですから、それまで疑われていなかった人権制約と理論的な齟齬をきたしていることもあり得ます。パターナリズムは、革命によっても打倒されるべき対象とはされなかったわけですが、それだからこそ、パターナリズムの問題を現代において考えるということは、人権の理論との整合性を今度は机の上で探求する作業が必要になります。

人権制限の根拠については、J.S.ミルの見解を参考にしてきましたが、ミルは、パターナリズムについても否定的でした。その『自由論』において、「文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。人類の構成員の一人の単に自己自身だけの物質的または精神的な幸福は、十分にして正当な根拠ではない。ある行為をなすこと、または差し控えることが、彼のためになるとか、あるいはそれを彼を幸福にするであろうとか、あるいはまた、それが他人の目から見て賢明でありあるいは正しいことでさえもあるとか、という理由で、このような行為をしたり、差し控えたりするように、強制することは、決して正当ではありえない。」と論じています(塩尻公明・木村健康訳J.S.ミル『自由論』岩波文庫版24頁・1971年)。
要するに、ほかの人から見て、「そんなことしちゃだめよ」という場合であっても、刑罰でその人に行動を強制することは認められないというものです。パターナリズムに否定的な考えであった、とされる叙述です。

しかしこの見解は、合理的一般人を想定しているのではないでしょうか。ミルも、「この所説を、諸々の能力の成熟している人々にだけ適用するつもりであることは、おそらくいう必要はない」としています。つまり、十分な判断能力があったうえで自ら選択した場合については原則としてそう考えられるのですが、絶対にダメか、というのがここでの問題です。

社会契約論に立ち返って考えてみましょう。生命、自由、財産について守ってもらうために国家を創ったのは、合理的判断ができる一般人のはずです。そうではない、自分で生命、自由、財産を守るということの意味について十分な理解ができていない人もいますし、十分な判断能力が備わっていないがゆえに、自らの生命、自由、財産を毀損してしまうような人に対しても、国は絶対に干渉してはならないことまで社会契約の内容となっていた、とまで考えるのはかえって不合理なことではないでしょうか。

国家が、人権を保障するのは、その人の人格を保障することであり、その自律的発展を妨げることのないように国はその邪魔をしない、というのが人権保障の趣旨であるとすると、判断能力が十分でないため、人格の発展を自ら毀損してしまうような行為などに干渉することも例外的に認められる場合もある、と考えられるのではないでしょうか。これを限定的なパターナリスティックな制約と呼ぶことがあります。

そうなると、人権を制限できるとすれば、ほかの人の人権だけだ、という命題は、ほかの人の「人権」の意味を拡大したほかに、限定されたパターナリスティックな制約がある、ということになります。

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