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【第81回】生存権 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話


1. 作為請求権

生存権が主張されてきた背景(夜警国家観から社会国家観への転換)やワイマール憲法の教訓などについては「公共の福祉」に関連してすでに触れてきました。改めてですが、自由権は、国家に対して不作為を要求する権利、国家からの干渉を拒否する権利であるのに対して、生存権をはじめとする社会権は、国家に対して作為を請求する権利という特徴があります。

このことが、裁判による救済をむずかしくしていることもすでに触れました。

2. 食管法事件(最大判昭23.9.29)

戦後の食糧難の時期に、闇で米を買い自宅に持ち帰る途中に検挙され、食糧管理法違反で起訴された食管法事件と呼ばれるものがあります。被告は、憲法25条は国民の「生活権」を保障しており、本件の行為は「生活権の行使」であるから、これを処罰する食糧管理法は憲法違反だと主張しました。

これに対して、最高裁の多数意見は、憲法25条1項は、「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務として宣言したもの」、「すなわち、国家は、国民一般に対して概括的にかかる責務を負担しこれを国政上の任務としたのであるけれども、個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するものではない。言い換えれば、この規定により直接に個々の国民は、国家に対して具体的、現実的にかかる権利を持つものではない」としました。

このことから、最高裁はプログラム規定説を採用したものと評価されました。

3. プログラム規定とは

日本国憲法制定後、比較的早い時期に、法学協会(後に最高裁の裁判官になるような高名な法学者により構成されています)から、『註解日本国憲法』という注釈書が出版されました。そこには、憲法25条1項の規定は、「……具体的権利、いいかえれば、これに対応する国の『法律上』の義務があるところのものではない」とされ、「国が常に、そのことにつき努力すべきであるという、将来の政治や立法に対する基本的方向を指示したものである。……法律的にはプログラム的意義のもの」とされています。

「人権宣言」という名称のものでも、1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された、「世界人権宣言」は、条約でも、国際協定でもなく、法的拘束力を持たない、というのが少なくとも起草者の考えでした(国際法上の位置づけについては議論があります)。すべての国などが達成すべき目標として宣言されたというわけです。プログラムという言葉は、物事の進行状態についての計画や予定という意味ですから、国として、そうした方向で政治や立法を進めていくということを宣言した規定だという意味で、プログラム規定と呼ぶわけです。主観的な権利を認めたものではなく、国としての目標を客観的な規範の形で定めた、という理解もできるかもしれません。

先に紹介した『註解日本国憲法』は、憲法25条1項は「国の政治的・道徳的義務を明らかにした」もので、「このような意味の国の責務の宣言のうちに、すべての国民に期待される国民としての利益ないし地位を生存権と呼んだわけである」としています。生存権は具体的権利ではなく、国としての責務を定めた→国の責務を果たせば、国民一般は反射的に健康で文化的な最低限度の生活を営み得るという利益が期待できる→その地位を「生存権」と呼んだのだ、というロジックです。

4. 法的権利説

世界人権宣言は、その前文で、「……社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」として決議されていることからも、プログラム的なものであることは読み取れます。

しかし、日本国憲法の生存権は、他の人権規定と並んで規定されていて、別の章に規定されたなどの特段の事情がないのに、その性質からプログラム規定だというのは、恣意的ではないかと考えた学者たちは、生存権も法的権利であると主張するようになります。

これを具体的な権利だと構成しようとすると、25条を直接の根拠として裁判所の給付判決が得られる、という結論が導かれそうですが、実際にそこまでの主張はないようです。具体的権利説と呼ばれる説は、25条を具体化する立法をしない場合(立法が不十分な場合を含む)に、立法不作為の違憲確認訴訟を提起できる、というものです。

しかし現在、社会保障関係の法律が存在しない、ということは想定しづらいように思われます。多くの学説は、国民が、国に対し、健康で文化的な最低限度の生活を営むために、立法その他国政の上で必要な措置を講ずることを要求する抽象的権利を持っているのだとしています(単なる反射的利益ではない!)。

ただし、近年では、プログラム規定説、抽象的権利説、具体的権利説という分類に重きを置くのではなく、25条が裁判規範として機能することを前提に、「法律が改正されて不利益を受ける場合に、それが国家賠償の対象となるか」とか、「法律に基づいて給付の基準を行政機関が設定した場合に、それが適正か」というような場合にわけて、どのような基準で司法審査をすべきか、という形で議論がなされています。

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