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離婚から自活へ。苦労の末に記者の道をつかんだ明治の女性【羽仁もと子vol.3】
百年前の東京で暮らし、学校や職場や結婚相手を自ら選んで、人生を切り開いた女性、羽仁もと子。
そんな彼女の人生をひもとく記事シリーズ。前回では、羽仁もと子が文通の末に結婚を決めたところまでお伝えしました。今回は、もと子が新聞記者となる過程に焦点をあてます。
結婚して京都へ。半年で夢破れる
周囲からの祝福を受けて、嫁ぐために京都へと旅立ったもと子。
幸せに包まれるはずだった新婚生活は、期待どおりにはいきませんでした。
東北生まれのもと子に京風料理をつくるよう命じるなど、関西にかぶれた夫は妻に自分の要求を押し付けるようになります。
もと子は夫との別れを選びました。自分自身を殺さない道を歩むことにしたのです。
京都から東京へと出立する汽車に乗るもと子を、夫は見送りに来ました。
再び東京へ。離婚から自活への道
そうして、もと子は離婚しました。離婚したことは、実家にも友人たちにも、夫の両親にも知らせずにいました。
東京に着いて友人の家に落ち着かせてもらったものの、いつまでも居候するわけにはいきません。物書きの仕事をしたいという気持ちもあり、あっせん所で仕事を探して、住み込みの女中になりました。
女中先は妻が医師として医院を経営するお宅でした。もと子は身元が知られないようにと、懸命に女中仕事に精を出します。そのうちに市中で偶然に出会った知り合いから、小学校の先生の仕事を紹介され、女中を辞めて先生として生計を立てることになりました。
しかしもと子は、どうしても「書く仕事」がしたかったのです。先生の職を得てからも、ちらちらと新聞の求人欄をチェックしていました。
ある日、報知新聞に校正係の募集が出ているのを見つけたもと子は、履歴書と手紙を急いで新聞社に届けに行きました。
小学校の先生から新聞社へ。自分のやりたい仕事をつかんでいくもと子
当時の新聞社には男性しかおらず、女性が応募してくるなんて想定もされていませんでした。それでも面接案内のハガキをもらうことができ、もと子は無事採用となります。
どうやら女学校卒であることや、学生時代に雑誌の校正の仕事をしていたこと、履歴書に添えた手紙の筆力が高く評価されたようでした。
勤務先の小学校とも相談し、後任が見つかるまでの間、午前中は小学校・午後は新聞社と半々で働き始めます。
もと子は校正の仕事を心から楽しんで働きました。さまざまな記事に朱入れするうちに、自分でも記事を書いてみたくなったのです。
かつての学校時代の知己をつたって、当時の有名人・谷干城夫人へのインタビュー取材をする機会を得、初めての取材記事を自分の判断だけで書きあげました。
原稿を記者に見せたところ採用となり、新聞に数回にわたって連載。大きな話題となります。報知新聞社主の三木は、もと子のところへやってきて、その筆力を大いにほめました。その場で主筆の意見を聞き、校正係から記者へともと子を配置転換する決定をしたのです。
こうして報知新聞社初の女性記者が誕生しました。
記者となり、そして新しい生活へ
記者となってからのもと子の活躍は目覚ましく、女性ならではの視点を織り交ぜた記事は評判を呼びます。もと子の記名入り記事を読んで、これまでにお世話になった懐かしい人々からは祝福や励ましの手紙が届くようになりました。
ここにきてようやく、郷里の祖父に、離婚したことや記者として働いていることを報告します。
故郷から進学のために上京した弟と一緒に暮らそうと、芝に家を借りて充実した生活を送るようになりました。
そして。もと子の職場には、生涯のパートナーとなる男性が現れます。羽仁吉一は故郷の山口で新聞記者として働いており、もっと腕を磨くつもりで上京して報知新聞に入社したのでした。
非常に有能な記者だった羽仁は、職場での活躍と同時に、理知的で思索的なもと子と共鳴するようになりました。
もと子が28歳、吉一は21歳となった明治34年の暮れに結婚し、二人とも報知新聞を退職します。
つづく
学費免除を直談判。仕事をしながら無料で女学校で学ぶ日々
もと子が思い立ったのは、明治女学校への入学でした。かねてより愛読していた『女学雑誌』の編集者でもある巌本義治が教頭を務めるミッションスクールの明治女学校は、日本人の手による女性教育の理想を追求する場となっており、もと子にとってまさに理想の進学先だったのです。
しかし、明治女学校は師範学校と違って私立なので費用がかさみます。郷里に弟妹のいるもと子としては、学費を出してほしいとは祖父に言いにくい状況でした。
もと子は、自分の事情を書いた手紙を教頭の巌本宛てに出し、返事が来ないと見るや、いきなり訪問します。学費を払えないが、働きながら明治女学校で学びたいと直談判をしたもと子。その熱意は巌本の心を動かしました。
学費が免除され、無料で明治女学校に通えるようになったもと子は、『女学雑誌』の原稿にルビをふる仕事ももらえました。それまでの下宿を出て、学校の寄宿舎で暮らし始めます。
勉強に励む傍ら、雑誌の仕事を通じてさまざまな著名人におつかいという名目で会う役得にも恵まれ、もと子はさまざまな刺激を受けます。そのうちに雑誌の仕事もランクアップして、校正の仕事をもらうようになりました。
生来から思索を深めるたちのもと子。学校の暮らしに加え、キリスト教の教会での説教を聞いたり、あちこちで行われる演説を聞いたりと見聞を広げるうちに、信仰や人生の真理について考えを深めていきます。
八戸へ帰省して、そのまま教師として働く日々。それは遠距離恋愛の日々でもありました
女学校の2年生の夏、もと子は久しぶりに故郷・八戸へと帰省します。
乞われるままに地元の小学校で教鞭をとり、そのまま東京の学校には戻りませんでした。
そのうちに、盛岡のミッションスクールで教えていた友人から結婚を機に退職するからと後任をたのまれて、盛岡へ赴任することに。しばらくは郷里で教師として暮らす日々が続きました。
一見すると華やかな東京の生活から離れ、平凡で静かなふるさとの日常に戻ったかに見えたもと子は、文通で恋に落ちていました。東京で知り合った男性と手紙をやり取りするうちに、お互いに気持ちがふくらんでいったのです。関西に暮らすその人と、結婚の意志を固めます。
厳格な祖父に「関西の人が好きになったから結婚します!」なんて言えるわけもなく、先方から祖父に宛てて縁談を申し込んでもらうことになりました。ところが遠い土地の人でもあり、事情を知らない祖父はすげなく断ってしまいます。
慌てたもと子が事情を話すと、孫想いの祖父は「早く言ってくれればよかった」と結婚を許してくれました。こうしてもと子は、教師を辞めて京都へと嫁ぐことになったのです。
つづく