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明治生まれの共働きワーママ。羽仁もと子ってこんな人【羽仁もと子vol.1】
明治生まれの一人の女性が、百年前の東京で暮らし、子育てをしながら雑誌をつくり、自分が理想とする学校を設立していたなんて。
百年後の今、共働きは当たり前になってきています。それでも仕事と家庭と子育ての両立に疲れて、自分が何をやりたいのか、どう生きたいのか、わからなくなっている女性はけっこう多いはず。
私もその一人です。既婚・未婚・子どもの有無にかかわらず、女性が社会で働くのは、まだまだ・なかなかハードだなと感じる日々を送っています。
食洗器もルンバも洗濯機も炊飯器や冷蔵庫だってなかった時代に、子育てとキャリアを両立した人はいったいどんな人なのか。
何回かにわけて、そんなスーパーウーマン・羽仁もと子のストーリーを紐解きます。
あ、でも。
スーパーウーマンになりたいから、紐解くわけじゃないです。スーパーウーマンなんて無理だよ(涙)となっている、自分も含めた女性の生きづらさの源流をたどったときに、どんな人がいて、どうやって生きたのかを知りたいという。ある意味の怖いものみたさかもしれません。
羽仁もと子ってどんな人なのか。ざっくりダイジェスト
自由学園を創立し、現在も刊行が続く雑誌『婦人之友』の創刊者として知られる羽仁もと子。日本での女性ジャーナリストの先駆けとしても著名な人物です。
明治に生まれ、大正、昭和を生き抜いた羽仁もと子は、100年前の共働き家庭の先駆者として、子育てをしながら雑誌や学校をつくりました。
女性は家庭を守るものとされ、家事労働も大変だった時代に、羽仁もと子はどのようにして人生を切り開いていったのでしょうか。
羽仁もと子のダイジェスト解説
明治のはじめに、旧八戸藩士の家に長女として生まれた羽仁もと子。教育熱心な祖父の支えもあり、東京の学校への進学を果たします。東京でキリスト教に親しみ、女学校の教育を修めたもと子は、離婚を経て新聞記者となりました。新聞社で編集長を務めていた羽仁吉一と結婚し、退社。『家庭之友(のちの婦人之友)』という婦人向け雑誌を夫婦で創刊し、編集者として働きながら子どもを育てます。
さらに学校の設立を実現。自労自治の考えのもとにつくられた自由学園は、独自の教育を行う学校として、ユニークな人材を各界に輩出しています。
明治6年(1873年)に青森県八戸市に生まれる
東京で女学校に通ったのち、郷里の八戸や盛岡で教師となる
結婚するが、6か月で離婚
報知新聞に入社・女性初の新聞記者として活躍
報知新聞の社員、羽仁吉一と結婚
3女の母となるが、次女を幼くして喪う
女性向け雑誌『家庭之友(その後『婦人之友』に改題)』の創刊と編集
家計簿を考案し、普及させるなど、家庭経営のノウハウを体系的に世の女性に知らしめた
大正10年(1921年)に自由学園を設立(1921年)
家庭的な教育の場をつくり、自由で個性的な卒業生を育んだ
以降、編集者・教育者として尽力し、昭和32年(1957年)に83歳で生涯を閉じた
羽仁もと子の生い立ちと記者への道
幼少期:新しい時代の空気の中、八戸で育つ
明治六年の青森・八戸で、元藩士の家に長女として生まれたもと子。父は、八戸のほかの士族の家から婿養子として迎えられており、祖父が家長として一切を取り仕切る家庭で育ちました。
祖父の性格を私は色濃く受け継いでいる、と、もと子自身が著書で述べています。もと子の祖父は文化的で頭脳明晰、誠実で厳格な人柄で、孫たちに学問を習得させることにとても熱心でした。
もと子の祖父は銀行の重役を務めており、地元では上流の家庭でした。とはいえ当時、東京へ遊学させるのは大きな負担だったことでしょう。所有している山や田畑を売って、三人の孫たちの教育費用を捻出しています。
もと子の幼少時代は八戸でも自由民権運動が盛んで、こうした自由進取の時代に呼応していた人物だったこともうかがえます。
実母や祖母も聡明な人だったのがもと子の著書から伺い知れますが、教育は受けておらず字は読めなかったそうです(当時の女性ではふつうのことでした)。
わからないことを気軽に祖父や父に聞けるような団らんがあるような時代ではなく、もと子は何かと思索を深める(つまり、一人で悩みぬく)タイプでした。口が重く、とにかく考え抜くタイプであったから、勉強はよくできた一方でかわいげのある子どもとは言えなかったようです。
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もと子が11歳の頃に婿養子だった父が離縁され、父子は別れて暮らすようになります。
もと子の父は弁護士として働く優秀な人物でしたが、実家の銀行の汚職事件に関与して収監されてしまったのです。加えて女性関係でもトラブルがあったようでした。
詳しい事情はわからぬままに、祖父が下した離縁の決定に従って、父に去られてしまったもと子。どんなにか衝撃は大きく、悲しみが深かったことでしょう。
実父は実家に戻ったのちに、新たに妻を迎え、八戸に居を構えます。もと子は何度となく寂しさから父の家に足を運び、父とも会えたようでしたが、体調を崩していた父とはその後、深いふれあいのないままの死別となりました。
父に去られたもと子は、謹厳な祖父によって学問を修める機会を得ます。まだまだ女子の学問が当たり前でない時代だったにも関わらず、もと子は八戸から6日もかけて上京し、東京府立第一高等女学校(現在の都立白鷗高校)に入学しました。
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つづく