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母親を亡くすということ

*見出し画像は高橋英吉《母子像》(1941)

50代ともなると親世代がお隠れになる頃合だ。オレの場合は44の時に震災が来たので、周りより少し早かった。前年に父が77歳で亡くなり一人暮らしだった母は津波で一瞬にしてあちらに逝ったわけだが、膝が悪い程度で全くもって元気だったし3.11の数日前も電話で話したので、死んだという実感がおよそない。当時75歳、生きていれば今も元気で短歌や押し絵をやっていたことだろう。

東京から2日がかりでたどり着いた門脇・南浜の光景(2011.3.14)

自分の身に何が起きたのか、摑みようがないのは本当にいずい(東北弁で「居心地が悪い」の意味)。病気や事故ならご遺体と面会して通夜・告別式をおこない、火葬して納骨してと段階を踏みつつ肉親の死を受容できるが、行方不明なのでそれができなかった。
あのときの石巻の人は家や家族や仕事を喪い生活が一変して、他人に弔意を伝えている場合ではなかった(地域で何百人も死んでいる)。東京に戻ったら戻ったで「大変だったね」「言葉が見つからない」と茫洋な物言いばかり。そのなかで気に留まったのは、親しい著者S氏がオレの境遇を人伝てに聞いて「男にとって母親を亡くすことほどつらいものはない」と言っていたとその人から聞かされたことだ。フーンあの人はそうだったのかと思ったあと、「あ、オレのことか。かなりつらい体験をしたっぽいな」と苦笑した。

年末に毎日新聞から取材を受けた時の記事(母以外の個人名は削除)

周囲の反応で面白かったのは、震災から何年も経ってるのに「まだ見つからないの?」と言われること。主に東京の人なので、門脇・南浜がどんな状況だったか知らないので無理もないが、探したといっても市内の避難所や遺体安置所を回ったのは最初の1ヵ月だけなので返答に困ってしまう(3月14日、日和山から門脇と南浜の姿を見た瞬間、生きているわけがないと諦めた)。さすがに今では訊かれ方が多少違って「最後まで見つからなかったの?」と。どっちにしろ返答に困る(笑)。

母親とその妹夫婦が見つからないままとなり、母方親戚が住まう門脇・南浜で一人の叔父と二人の叔母が生き残った。震災を経て、叔母たち(母の弟嫁と末妹)と急速に親しくなった。それまでは叔父叔母といえど世間話を超える対話もなかったが、自分たちの血縁関係の根本となる本家や仏壇や墓が壊滅し、兄弟姉妹が生死を分け、数ヵ月のあいだ助け合いの日々を過ごした。命についてあれほど話したのは、実の親以上だったかもしれない。

3ヶ月後、行方不明のまま死亡届を提出した

そういう自分の傾向を、叔母たちに対する過剰な依存症(話を聞いてほしい)として強く感じていた。母親を喪った自己内処理がうまくできず、叔母という血縁女性(母性?)で代用していたように思う。30数年前に大学進学で家を出て、夏休みや正月に帰っても、話すのは父親でなく母親だった。男同士はどうも照れくさい。酒を酌み交わそうなんて思わなかった(たぶんお互いにだろう)。逆に母親は男の子に対する偏愛が強いようで、30代だろうが40代だろうが、手のかかる息子から卒業できなかった。その関係のまま、突然死別してしまった。寄りかかってきたつっかえ棒がポッキリ折れたのだ。折れたというより、消えた。拠り所がなくなった。父親が死んだときは、そんなこと微塵も思わなかった。前述S氏が言いたかったのはそういうことだろう。

母と娘(孫)。2007年正月、金華山にて

しみじみ思うのは、自分にとって郷里に帰るということは母に会いに行くこと、母親の愛情に包まれに帰ることだった、ということ。他の人はどうか知らないけれど、結婚によって最愛の女性が母親から妻に入れ替わることが通例とするなら、オレは全く違う(ここでは書かない)。家族を喪った、家を喪った、ふるさとを喪った…どれも正しいが、どれでもない。遺体がみつからず納骨もできず、どこかで生きているんじゃないかとさえ思える状況が10年以上続いている。母との決別が果たせないまま、オレはオレで朽ちてゆくのだろう。そのやるせなさと向き合うにはどうしてもエロスやタナトスが伴う。カッコつけてなんか生きていられない。

慰霊碑の前で合掌する娘(2021.3.11)

マザコンと言いたければ言えばよい。本当のマザコンを知った上で言っているなら話を聞いてやってもよいが、マザコンと言うからには少なくとも、門脇・南浜の公園に来て、母の名前が刻まれた慰霊碑に手を合わせてからにしてほしい。