虚構の出来事と日常 2つの反復
映画や小説といった虚構の作品を楽しみながら、ある時登場人物が死んでしまうことがあります。死んでほしくなかったと思います。でも虚構の中でさえ、死は受け入れざるおえません。そうして虚構の中でさえも過去と未来を反復している自分に気づきます。
映画の登場人物が死ぬのはここで物語をもりあげるために、演出上こういう事が必要だったのだと考えることはあります。実際製作者はそういう意図を持って作っているのかもしれません。視聴者を驚かしてやろう、感情を揺さぶってやろうと考えているのかもしれません。
そうやって作品から距離を取ることもできます。でも目撃してしまったその場面の衝撃は、私を動かしていることを感じざるおえません。登場人物に共感することによって初めて作品は体験へと変わっていくのです。
人間が社会の中で生活していくときに、目の前の相手がどう感じているかという想像力がなければ、生活していくことは難しいです。もしなければ、自分は今どう行動すべきかということも判断することができません。ただ闇雲に行動すれば関係が悪化して、関係が破綻することもありえます。
成長する過程で、人間関係を維持しながら生活していくときに、それらを学んでいくのでしょう。他人が自分に向けられる行為に対して、自分が感じる感情をもとにしながら作り上げていくのだと思います。
そういった感情の中に失うことの悲しみの感情があることに気が付きます。はるか昔から群れで暮らしていた人間の記憶がそういった感情を呼び起こすのかもしれません。か弱い生物である人間は、一人だと生きていくのが難しかったからかもしれません。たった一人で草原の中に取り残される人間を想像します。
たぶん登場人物の死は、草原の中で取り残される自分を反復し、友達と喧嘩して泣きながら帰っていった道を反復しているのだと思います。悲しいとも寂しいとも言える場面を反復し、もう一度体験します。
辛いことでもあります。でもそれが娯楽として成り立つのは、目を上げればいつもの日常があって、いつもの自分へと帰ることができるからです。日常は退屈なことの反復です。しかしそれは帰るべきところでもあります。毎日の食事の用意こそ帰ってくる場所です。