機械のある風景
私は以前工場で働いていました。いつも機械に囲まれて働いていました。だから機械に対しては思い入れがあります。この機械と私との関係はどういうふうに理解すべきなのだろうかと考えてきました。これをマルクス風に労働と資本との関係と捉えることもできます。機械設備はバランスシート上は資産として計上されるので、それで間違ってはいないでしょう。さらに言えば資本を所有することによって、生産手段を持たない労働者を働かせて、そこから出てくる商品を市場で売ることによって、余剰価値をかすめ取ると言う側面もあるでしょう。雇い主という力を資本家が行使しているということでもあります。でもそれだけではないそう感じてもいました。機械にはどんな可能性があるのでしょうか。こんな物語を考えてみます。
僕はコンクリートの上に緑色の塗装を施した床に椅子を滑らした。椅子は滑りながら壁に当たって止まった。仮想通貨で当てて使い切れないくらいの大金が手に入った。税金もたっぷりはらった、国のボッタクリはひどいものだとしみじみ痛感した。その金で、中国との貿易戦争で負けた会社が潰れて、長い間売りに出ていた小さな工場を買った。維持費はべらぼうにかかるが出せない金額ではない。排水設備がないので化学薬品を使うようなものは使えないが、主に工作機械をおいてある。機械を立ち上げるためにスイッチを入れ、準備に取り掛かる。加工用の金属棒をセットし動かすと、金属を水で冷やしながら加工されていく。その形は人の指のようにも見えるが実際は機械に組み込んで主軸を支える部品となる。機械というのは、僕が買った中古の自律移動型の広告表示装置だ。デジタルサイネージをさらに進化させたもので、人々のデータを集め、歩行している人それぞれにあった広告を表示する機能がある。いわば資本主義の尖兵であり人々にターゲットを合わせては広告という弾丸を打ち込むのだ。それを僕は改造して人々に現実を見せるための機械を作るのだ。
機械は改造されます。私の工場でも機械は改造されて使われていました。すると、もともととは違った働きをします。当たり前です。そのために改造したのですから。もちろん少しだけの改造がほとんどであって、それで歩留まりの向上が見込めたりします。でも機械は修理され、機械がつけ加われ別のものへと変わることもありえます。それを生成変化ということはできるでしょう。生成変化とはフランスの哲学者のドゥルーズが大きく取り入れていた言葉です。あるという存在とは別のあり方であり変わるということです。あるとは変わらぬ存在を表しますが、生成変化は変わっていくのです。機械とともにあるとは生成変化の可能性とともにあるということです。今この瞬間にも何かが作られているはずです。